【古代ギリシア哲学6−2】多元論者と原子論〜アナクサゴラス〜

アナクサゴラスについて

アナクサゴラスは、BC500年ごろイオニア地方で生まれ、BC456年ごろアテナイへ移住し、アテナイの有名な政治家で将軍のペリクレスと親交をもったという。プラトンの著作の対話篇にも、ソクラテスがアナクサゴラスの著作を読んだという記述があり(パイドン97c)、アテナイにおいてアナクサゴラスの思想は広く流布していた。もっとも、ソクラテスはその本を読んで失望するのだが。(この話はまたのちの回で)

また、アナクサゴラスは、イオニア出身のため、イオニアの自然学をアテナイに広めることにも貢献しており、BC450年ごろ以降のアテナイの文化的、学問的発展にアナクサゴラスの寄与したところは大きい。

 

アナクサゴラスの思想

アナクサゴラスの万物の原理

さて、そんなアナクサゴラスの思想を見ていこう。

例に漏れず、アナクサゴラスも思想的な課題をエンペドクレスと共有している。その課題は、前回も触れた通り、パルメニデスの存在論と現象世界の調停である。この課題の共有から、アナクサゴラスの思想はエンペドクレスの思想と同じ地盤にあるといってよく、両者の比較は、思想の理解において有用である。

アナクサゴラスは、パルメニデスの生成不滅の否定を、エンペドクレスと同様に受容する。そして、これも同様に、運動の否定と多数性の否定については、これを受け入れていない。この時点で必然的に、多数の永遠不滅のなんらかの物質が運動することでこの世界の多様性が生じているという宇宙観であることになる。

アナクサゴラスの場合、この原理となる物質は、「ある事物」あるいは「全てのもの」としか言いようがない物質であり、その物質に対して、おそらくは比喩的に、アナクサゴラスは種子(スペルマ)と呼ぶ。

これはどういうことかというと、アナクサゴラスは、「全てのものは、渾然一体としており、数量においても、小ささにおいても無限である」とし、「全てのものは全ての部分を分け持っている」としているため、何か特定の存在者を原理として取り出すことができないということである。要するに、全てのものとは、全てのものをそのうちに秘めている、無限に分割できる事物からなっているということである。その秘めているものとは、火・空気・水・土などの基本要素や、熱と冷などの対立物や、肉や髪といったものまである。こうした、要素は、事物をいくら小さく分けても、混合した状態にあるため、それ自身を単体として取り出すことはできないのだ。

多数の要素が無限小において混合しているというアナクサゴラスの理論では、純粋な存在者は存在し得ない。例えば、髪の毛についても、髪の毛という要素がその中にあるとされているが、髪の毛は無限に分割可能で多数の要素が入り混じった事物によって構成されているため、髪の毛には髪の毛の要素以外にも無数の要素が含まれていることになる。

それでは、なぜ髪の毛は髪の毛として存在するのか。アナクサゴラスは、純粋な存在者はあり得ないが、存在者の構成要素の割合の大小はあるとする。つまり、髪の毛には、髪の毛の要素が一番多く含まれているため、髪の毛の要素が存在者を髪の毛として代表しているということになる。確かに、世の中の多くのものは混合物である。例えば、水といってもその中にはさまざまなミネラルが含まれている。純粋な物質といっても100%その物質からできていると言い切ることは不可能である。その点で、無限に分割していくと、そのものとは別のものが含まれているという理論は説得力がある。

また、アナクサゴラスは、生物の成長を例に、この理論を説明する。人間は、食べ物を食べることで成長する。しかし、人間は食べ物ではない。では、なぜ食べ物から人間が作られるか。それは、食べ物の中に、髪の毛や肉などの単純な要素が含まれており、それが人体の各場所において結合する。こうして、食べ物の中にある人体を構成する要素のみが差し引かれ、残りの要素は排出される。この理論も、経験と理屈の両方において妥当である。

しかし、この理論においては、先ほどから便宜的に要素と呼んでいるものと、それが無限に分割できるということがどう関係するのかが難点である。存在者を存在するもの全てとすると、この理論では、人間のような髪の毛や肉などの要素の集合体としての存在者が最もマクロなレベルにあって、その下にアナクサゴラスにおいてはそれが混合した状態としてすべてのものがあるところのそれ、すなわち四元素や肉、髪の毛などの要素がある。要素は単純なもので、人間などはこの単純な要素の組み合わせなのだが、全てのものは全てのものを含むということと、無限分割可能ということを考慮すると、この要素もまた分割可能でなければならない。ただ、要素は単純であるため、例えば髪の毛の要素を分割したとき、髪の毛を構成するさらに下位の要素(科学的に言えばタンパク質など)は存在しないことになる。すると、髪の毛の要素には、髪の毛の要素とその他の髪の毛以外の要素が多数含まれていることになる。そして、これは無限に繰り返されることになる。となると、ある存在者の中である要素が優勢であり、多くの割合を占めているということは果たして可能なのだろうか。という疑問が生じる。

また、そもそも無限に分割可能な事物においては、その事物をその事物たらしめる要素という基本単位が不可能なのではないか。例えば、リンゴを無限に小さくしていくと、もはやリンゴではないものになるが、それを組み合わせるとリンゴになる何かではある。それは、例えば原子として、原子の性質を持っている。だが、その原子もまた別のものからできていて、その別のものもそのまた別のものからできている……とすると、最終的にリンゴをリンゴとして構成している何かが特定できないことになる。さながら、永遠に責任逃れをしているかのように、リンゴの構成物質は見つからないことになってしまう。

このように、無限分割可能な物質とその集合としての性質の両立は理論的に難しい。また、単純に無限に分割可能とはどういうことなのかという問題もある。それは果たして大きさをもちうるのだろうか。分割される前の要素と同じ要素が分割後に見出されるとはどういうことなのか(髪の毛の要素を分割したあとにも同じ髪の毛の要素が存在する?)。こういった諸問題は、原理を求めていく探求につきものであるともいえる。

 

 

事物の運動について

さて、これらの事物は、エンペドクレスと同様に、自らのうちに運動の原因を持たない。そのため、運動を与えるものがこれらの事物の他に存在することになる。アナクサゴラスにおいて、運動原因は、知性(ヌース)であるとされた。ここでいう知性とは、人間の持つ知性とは区別される。いわば、宇宙の知性である。この知性は、上記の事物のように宇宙に存在する存在者ではあるが、事物とは異なる存在である。

知性は、分割不能で、純粋で、自律的で、いかなる事物とも交わらない。つまり、知性は知性として、単独で、事物とは異なる存在としてあるということである。事物は、宇宙の中で混合し、区別のつかない在り方であったことを踏まえると、知性の純粋性が知性と事物の区別を特徴づけているように思われる。

そんな知性は、事物の全てを把握し、その運動の全体も把握した上で、事物を運動させている。まるで全知全能の神が、全てをコントロールしているかのような宇宙観である。実際、アナクサゴラスのいう知性は全知全能であり、運動の全てを把握しているが、神とは異なりそこに意志は介在していない。ギリシア的な神においても、キリスト教においても、神は何らかの思惑をもって世界を動かす。つまり、意志をもつということで、これは目的をもっているということである。アナクサゴラスのいう知性は、確かに目的論的宇宙観、すなわち、この世界が何らかの目的をもちそれに沿うように動いているという考え方の先駆けになりはした。だが、この知性は単に運動の全容を把握しているだけで、宇宙に最初に一撃を与え、宇宙を動かしたのちには、ほとんど機械論的に因果関係によって動いているのと変わりがないような宇宙観である。そのため、知性という人間的な運動の原因でありながら、ほとんど機械論的な運動理論となっている。

実際、宇宙の誕生の際、一様に事物が混合していたが、知性によって力が加えられ、事物に渦巻き運動が生じ、事物のうち軽いもの=火とか空気が上空に舞い外側に吹き飛ばされ、重いもの=水や土が中心部の底に溜まった。これが天体と大地の誕生であるとアナクサゴラスは説明しているのである。

 

まとめ

さて、以上がアナクサゴラスの思想である。アナクサゴラスは、パルメニデスの存在論と多様な世界の調停というエンペドクレスの基本的な発想と軌を一にした。その中でも、共通点は、人間の目には生成消滅があるようにみえるが、それは慣習上そう呼ばれているに過ぎず、本来は生成消滅はないということ。そして、世界の多様性と変化を、多数の不生不滅の構成原理の運動によって説明したこと。万物の原理は、物質的な構成物質とそれを動かす運動因であること。その運動因は、人間と類比的な精神的なものとされていること、すなわち物質とは異なる存在であるということ。このあたりが共通点と言えるだろう。

違いは、構成物質が無限分割可能であるのか否か。運動因が二つか一つか。というところであろう。中でも構成物質の無限分割は、ある存在者を構成する物質が何であるのかを人間には決して確定できないため、認識論的にも不可知論のような立場を取ることとなる。アナクサゴラスは、人間の知性と宇宙の知性を分けて、人間の知性は事物の現象からその本性を推測することしかできず、本性には到達し得ないとした。これは、事物の原理が無限に分割できるということは、無限の原理があるということであり、この無限を把握するのはまた無限の知性であるという理論だと思われる。

次回は、この調停の総まとめとして、理論的には最も洗練されているといってもいいであろう原子論を取り上げる。というのも、原子論は万物の根源を原子=アトムとし、現代の科学に通じる基礎を作ったからである。そして、この原子論をもって、前ソクラテス期の哲学者は一旦終了し、古代ギリシア哲学の三人の有名人に入っていく。