【古代ギリシア歴史1】エーゲ文明編

この記事では、古代ギリシアの歴史について紹介します。なお、正確な年代が判明していない場合もあります。

紀元前2000年から1200年までのギリシアの文明

ヨーロッパから見て東側、日の昇るところという意味のオリエントや、エジプトでは、紀元前3000年には政治的指導者を中心とした国家が生まれていた。オリエント、今でいう中東のイラクやイランにあたるメソポタミア地域では、王を中心とした都市国家が数多く存在し、エジプトでは、ファラオと呼ばれる王の支配する統一国家が存在した。

それに遅れること400年。小アジア、現在のトルコの東岸の地域でトロイア文明が興る。また、ギリシア南部のペロポネソス半島の南、地中海に浮かぶクレタ島という島でも文明が生まれ、ついでギリシア本土でもミケーネ文明が登場する。紀元前2600年ごろから相次いでギリシア周辺で生じた文明を、これらがエーゲ海を囲んでいることからエーゲ文明と呼ぶ。

エーゲ文明

  1. トロイア文明(BC2600-1200頃)
  2. クレタ文明(BC2000-1400頃)
  3. ミケーネ文明(BC1600-1200頃)

トロイア文明とクレタ文明はともに、民族が不明で、王が強力な権力をもつ中央集権的な国家だったため、オリエントの国家の影響を受けていると考えられている。

トロイア文明の担い手である民族は分かっていない。また、中央集権的な統治形態だったことと、ミケーネ文明を興したアカイア人によって滅ぼされたことは事実らしいが、それ以外のことについてもあまり分かっていない謎の多い文明である。

クレタ文明もまた民族不明の文明であり、トロイア文明と同様の統治形態であること、おそらくアカイア人によって滅ぼされたことなど、トロイア文明との共通点が多い。しかし、クレタ文明の方が分かっていることも多く、例えば、トロイア文明では不明である当時使用された文字や、宮殿の様子などが分かっている。

クレタ文明で用いられた文字は線文字Aと呼ばれ、いまだに未解読で資料として残っている。また、クレタ島には当時の宮殿の遺跡が残っており、特にクノッソス宮殿が有名で、色彩豊かなイルカの壁画や、幾つもの部屋が入り組んだ複雑な造りだったことを示す見取り図がある。その複雑さから、ラビュリントスとよばれ、現在のラビリンス=迷宮の語源ともなっている。ギリシア神話には、この迷宮が頭が牛で体は人間の怪物、ミノタウロスを幽閉するために作られたという話がある。

このようなクノッソス宮殿だが、城壁がなく、外部からの侵入に無警戒であった。そのためか、クレタ文明はミケーネ文明のアカイア人によって侵攻され、おそらくはそれが原因で滅ぼされてしまった。

そのアカイア人とは、ギリシア北部から本土に移住してきた民族で、城壁をそなえた王宮を中心に小国家をいくつか築き、クレタ島や、トロイアにも侵攻した。ミケーネ文明の城壁の門が今も残っており、門には獅子のレリーフが刻まれており、好戦的な彼らの性格が窺われる。彼らの統治形態は、王に支える役人が農民に対して、農作物や畜産物、手工品などを取り立てる貢納王政と呼ばれる。

また、アカイア人は線文字Bと呼ばれる文字を使用していた。これは、未解読の線文字Aから派生して誕生した文字とされており、線文字Aとは異なり1952年にヴェントリスによって解読されている。この線文字Bは後のギリシアの暗黒時代によって消滅してしまい、現在のギリシア文字とは直接の関係はないが、ギリシア古語を表す音節文字だということが判明している。

音節文字とは、ひらがなのように一文字が発音上の一単位を表す文字で、子音と母音がセットになる。ギリシア文字やアルファベットは子音と母音の分かれた音の要素を表すので、音素文字と呼ばれる。

そんなミケーネ文明のアカイア人は、紀元前1200年ごろ、突如として滅亡する。理由はいまだによく分かっておらず、内部崩壊か、ドーリア人または海の民などの外部からの襲撃かその両方か様々な説がある。これ以降、ギリシアの文明は400年程度途絶え、その間の期間を今では暗黒時代と呼んでいる。

その間に、線文字Bは失われ、人口は減少し、民族は移動する。400年後の、紀元前8世紀ごろようやく移動が終わり、いよいよ文化の花咲く古代ギリシアの時代に入っていく。