資本主義における、他者に対する融合困難な二つのシステム

資本主義である以上お金は大事だ。

だが、お金が忌避されている側面があることも、また事実である。

それはなぜか?

お金は、人の感情を無視させる場合があるからだ。

それは、どういうときか?

前回の記事で、保育園において、保護者がお迎えを遅刻したら罰金をとる制度を導入したら、以前よりも遅刻が増えたという実験を紹介した。

これは、お金が、相手への感情的な配慮を無視する権利に成り変わった結果だと思われる。

つまり、

「金を払ってるんだから、いいだろ」

とか、

「いくらもらえるならやる?」

というようなやりとりに典型的な、相手の嫌がることをやらせる、すなわち、相手の感情を無視し、自分に都合のいいように動かすような金の側面が、顕在化したのである。

この例は、金を払う方から、受け取る方へのやりとりだが、その逆も存在する。

「いくらくれるの?」

とか、

「これくらいくれるならやる」

というやり取りは、金を受け取る方が、自分が嫌なことをさせられる=感情を無視されることに対しての対価を求めているものである。

 

こうしたやりとりにおいては、人への感情・人格的な配慮を無視している。つまり、極端に言えば、相手を人として扱わず、単なる道具として扱っていることになる。

いわば、お金を入れれば、要求することをする機械のように扱っているのである。

 

なぜ、そのような、大袈裟に言えば、非人道的なやり取りが行われるのか。

それは、人の同情心・思いやり・想像力には限界があるからだ。人は、家族や友人、知り合いのためになら、相手を思いやって、自己犠牲の精神を発揮することがあるだろう。

だが、見知らぬ他人に対して、思いやりという心理的リソースを割くことは難しい。また、実際に、自己犠牲の行動をすることも難しい。

つまり、人は、他者に対して、ある程度の近い関係ならば、相手への配慮によって行動できるが、関係が薄ければ、そういった心理的・感情的な動機づけは働かなくなる。

 

そこで、別の動機づけとして現れるのが、お金である。

お金のやりとりによって行われているには、利己心・自己利益同士の交換である。つまり、自己利益を追求するという誰にでもそなわっている動機づけによって、他者への行動をさせるというシステムになっているのである。

結果として、自分のために他者に何かをするという巧妙かつ、奇妙な事態が発生するのだ。

 

以上のことから、現代社会は、他者に対する融和することが難しい二つのシステムを包含しているといえる。

一つは、相手を思いやることで、相手のために行動するシステム。

もう一つは、自分の利益のために、相手のために行動するシステム。

である。

資本主義の困難の本質はここにあるといってもいいだろう。

そして、このような、相手の人間性を無視し、自己利益同士の交換を作り出す側面が、お金が忌避されている原因といえるだろう。

 

だが、お金を介在させつつも、そこに思いやりを保つというやり取りも確かに存在する。それが、ファンベース的なやりとりなのだろう。これについては、別記事にて考える。