『チェンソーマン』デンジの「夢バトル」について考える

「みんな俺のやること見下しやがってよ。復讐だの、家族守りたいだの、猫救うだの、(略)、みんなえらい夢もってていいなあ。」

「じゃあ夢バトルしようぜ、(略)俺がテメーをぶっ殺したらよー、テメーの夢、胸揉むこと以下だ」

『チェンソーマン』 ep.4

『チェンソーマン』の思想的なテーマは、このデンジのセリフに詰まっている。

デンジは、「えらい夢」をもっていない。デンジの夢は、「胸揉むこと」や「パンにバターとジャムを塗って食べること」だ。そして、周囲にこのことをバカにされてきた。

だが、夢に上下はあるのか。夢は「えらい夢」=「高尚な夢」でなけらばならないのか。そもそも、現代において、「えらい夢」などもてるのか。

『チェンソーマン』のこれらのテーマについて、考える。

 

デンジの夢は低俗なのか—夢バトルについて—

デンジの設定

デンジは、極貧生活をしている。

それは、父親が残した借金が原因で、それを返すために、デビルハンターにさせられ、奴隷のようにコキ使われている。ボロい小屋に住み、食事は一枚の食パンを、ポチタと分け合うという貧しさだ。

つまり、デンジは物質的に全く満たされていないのである。

デンジの夢

そんなデンジの夢は、「パンにバターとジャムを塗って食べること」や「おっぱいを揉むこと」、「キスをすること」である。

要するに、腹一杯食べて、女の子と付き合いたいということなのだが、デンジは、あまりにも物質的に貧しく、無知であるため、そういった抽象的な夢を見ることができない。

そのため、「バターとジャムを塗る」や「おっぱいを揉む」などの具体的な行為を夢見ているのである。

このデンジの夢は、文化的でも、精神的なものでもない。たとえば、「人に笑顔を届けたい」とかいったものではない。

極度に物質的で、本能的な欲求に基づいた夢である。また、自分の本能に基づいているということは、同時に、極度に自己中心的な夢でもある。

夢バトル

そんなデンジの夢は、一般的な価値観からすれば、「低俗」だとされる。

実際、デンジは周りの人間から、夢をバカにされ、否定される。そんななかで、デンジが叫んだのが、上のセリフであり、「夢バトルしようぜ」である。

では、夢バトルとは何なのか。

それは、「家族を守る」といった人から認めてもらえる高尚な夢と、デンジの本能むき出しの夢のどっちに価値があるのかを決めるバトルである。

確かに、「家族を守る」という夢は、立派で高尚だとされる。だが、そんな夢をもつ人は、衣食住に困っていない。デンジからすれば満ち足りた生活をしている。そんな人間が、デンジの夢を低俗だといって、否定する資格があるのか。夢の上下を決める資格があるのか。

高尚な夢をもつ条件

そもそも、高尚な夢をもつためには、物質的に恵まれている必要がある。恵まれているからこそ、守るべきものがあったり、失われるものがあるからだ。

つまり、家族を守りたいとか、家族の復讐をしたいという高尚な夢をもてること自体、その人が家族をもっている=恵まれている証拠なのである。

デンジの夢の価値

一見、高尚な夢と思われがちな夢が、実は恵まれている証拠であり、デンジの視点からすれば贅沢とさえいえる。高尚な夢は精神的な価値をもつが、デンジの場合は、精神を満たす前に、腹を満たしたいのである。

精神的な価値を追求することができるのは、物質的に満たされた者のみである。

そういった意味で、より根源的で原始的な夢を、より価値が低いと見下す資格はないだろう。

 

デンジの夢と現代社会

豊かな現代

現代社会では、ほとんどの人が、デンジのように飢えに苦しむことも、他のキャラクターのように家族が悪魔に襲われることもない。悪魔に襲われるまでいかなくとも、家族を飢えさせないために命懸けで働く必要がある人はまずいない。

つまり、現代社会は極めて豊かなのである。

夢と現代

そんな現代社会は、深刻な「夢不足」であるといえる。

なぜなら、すでに、物質的に満たされているし、家族を守るとかいった高尚な夢をもつような必然性も、ほとんどの人にはないからだ。

少し前の時代では、人々は、そういった夢の代わりに、より良い学歴、より良い職業、収入、住む場所、車……といったステータスを夢として求めていたが、今となっては、それらの価値も誰もが認めるものではなくなった。

つまり、現代社会は、誰もが価値を認め、欲するような夢がないのである。

本能的欲求への回帰

そのような社会において、人は何を求めればいいのか。

そんな状況下で、本能的・物質的なものが再び求められるようになった。

それは、本能的なものが、万人にとって、理屈なしに求められるものであるからだ。美味しい食べ物は、誰にとっても美味しいのだ。

つまり、社会に以前のようにステータス的な価値を作り出す力が薄れ、誰もが求める精神的な価値がなくなった。ゆえに、人間に本能的に備わっている欲求に再び立ち帰る必要が生じたのである。

このように考えると、貪欲に本能的欲求を求めるデンジという主人公は、何にも価値を見出せない現代の空虚さのなかで、人間に残された本能的な欲求を求める現代人と、行動原理においては、共通した存在なのである。

露骨になる社会

生と死、飢えと飽食、性的なものといった、むき出しの欲望が、現代社会において徐々に、露骨になりつつある。この『チェンソーマン』にも、随所に性的な描写が出てくる。

その理由は、背景こそ違えど、デンジの腹一杯食べて、女を抱きたいという原始的な夢と、現代社会が一致しているのである。

あるいは、現代社会の価値の崩壊と露骨さを、うまく反映させたキャラクターがデンジである、といえるのかもしれない。