ここ数ヶ月間、中国の外交部が日本に対して、脅しのような声明文を、威圧的なフォーマットを使って、X上に発表している。
これに対して、ネット上では、このフォーマットを使って大喜利をするという現象が起き、にわかに盛り上がりを見せている。そのためのツールまで登場しているほどだ。[1]
このように、政治的緊張が、笑いのネタにされたり、風刺されたりすることは、歴史上何度もみられたことではあるが、これはそういった風刺の現代版と言えるだろう。
今回はこれをきっかけに、このような笑いや風刺のメカニズムとその効果、特に政治との親和性について考える。
政治と笑い・風刺の歴史
社会への批判を笑いを交えたコメディに仕立てた例は、紀元前の古代ギリシアにも存在する。[2]
最も有名な例は、アリストファネスの喜劇『雲』だろう。現代では、哲学者ソクラテスの人物像を知るための資料として有名だが、内容は当時の社会批判である。
近代では、印刷・出版技術の革命によって、新聞や小説を媒体に、さまざまな社会風刺がなされるようになる。
なかでも、ジェームズ・ギルレイの描いた、ナポレオンと英国首相ピットが世界を分け合う風刺画は、非常に有名だ。
そして、おそらく社会批判と笑いの歴史上、最も有名かつ重要なのは、チャップリンの『独裁者』だろう。
この映画は、チャップリンがヒトラーに扮装し、ヒトラーの独特な容姿や仕草をモノマネすることで、ヒトラーとナチスの不合理さを強調し、ナチスの権威性を揺るがしたといえる。
笑いとは
このように、歴史上、笑いと政治・社会批判は、密接な関係をもっているのだが、それはなぜなのか。笑いのメカニズムについて考える。
笑いのメカニズム
笑いとは、「緊張の緩和」である、という説がある。[3]
また、笑いとは、「裏切り」であるともされる。これは、相手の意表を突いたり、想定されている流れをずらすことで、皆が想像していることを裏切ることが笑いにつながるということだ。
総じて、緊張状態や、皆の想像という、現状の支配的な雰囲気・流れを緩和・裏切ることが笑いにつながるといえるだろう。
似たような分析を、フランスの哲学者ベルクソンは『笑い』のなかでしている。ベルクソンは、道でコケる男性の例を挙げ、笑いとは、想定される日常の流れが止まることで生じると分析している。
笑いに適した題材としての政治
このように、笑いには、緊張感があり、より多くの人がより想像できる事柄が題材として適している。なぜなら、多くの人が、より強く流れを想像できるため、それが裏切られ、通常と違う方向へ進んだとき、落差がより明確になるからだ。
例えば、学校で、先生が説教している最中に笑わせようとすることはよくあるし、葬式などの笑うには不謹慎なシチュエーションも、コントの舞台としては鉄板である。
したがって、笑いとは、流れを俯瞰し、それと逆行する形で、緩和させたり裏切ったりすることである。それゆえ、笑いとは、現在の流れや雰囲気、状況全体に対して、逆を行くことであり、いわばメタ的な視点を加えるものだ、ということができるだろう。
そして、流れが強ければ強いほど、より緩和や裏切りに落差が生じ、笑いの作用は強まる。
そういった意味で、強い流れを作り出す政治的な対立や衝突、緊張関係は、笑いの対象にしやすいのである。
笑いが果たす役割
したがって、今回の例で言えば、緊張関係を作り出している中国は、笑い・風刺の対象としてはうってつけなのである。
このように、笑いは、メタ視点から、同調的な雰囲気、流れを崩し、緊張を緩和して、流れをリセットする役割を果たすことができる。それによって、同調的な雰囲気に乗せられて、集団が暴走することを止める作用を持ちうるのだ。
ゆえに、古今東西、笑いは風刺として、政治・社会を批判する強力なツールであり続けていると考えられる。