「いいね」をもらおうとするコメント
近年、SNSのコメント欄、特にYouTubeのコメント欄は、評価されるためのコメントばかりのように思える。
顕著なのが、大喜利のようなコメントである。あるいは、音楽だったら、「〇〇年でも聞いている人!」というようなコメントである。他にも、無限にパターンがあり、そのどれもが、「いいね」をもらうこと、すなわち評価されることを期待したコメントである。
これはつまり、評価されるような評価・コメントをしているということであり、評価のメタ化とでもいうべき現象である。
コメントの二次創作化
コメントとは、本来、動画やその他コンテンツに対して、思ったことを投稿するものである。そして、そのコンテンツに対する感想を、他の人と共有することで、そのコンテンツをより楽しもうという趣旨のはずである。
つまり、コンテンツが主であり、それに対する感想コメントが従という関係である。
だが、現在のコメント欄は、コンテンツを材料に、評価されるコメントを書くという、主従関係の逆転が生じていると思われる。特に、コンテンツ内の変なところを突いたり、上手いことを言うことで、「いいね」をもらおうとするコメントは、これに該当するだろう。
こうなるともはや、コメントは、評価対象への感想・評価ではなく、それ自体が感想・評価の対象であり、ある種の二次創作となっていると考えられる。つまり、コメントそれ自体が、コンテンツと化しているのである。
自己顕示欲バトルの連鎖
二次創作もまた重要なコンテンツであり、それ自体は問題ない。
問題なのは、コメント欄の評価・感想が、ほぼすべて二次創作化してしまっているという現象である。もっとも、多くのSNSの仕様上、評価されているコメントが上位に来るので、そう見えるだけかもしれないが。
しかし、いずれにせよ、視聴者はそういった「評価されるためのコメント」を見る。そして、コメントする人もまた、評価を求めていることが多いだろう。
そうなると、ますます評価を求めた二次創作的なコメントが増加することになるだろう。すると、もはやあらゆるコメント・発言が、評価を求めた、いわば自己顕示欲に満ちたものになっていき、コメント欄やその他の場所で、自己顕示欲同士の争いが生じるということになる。
また、評価を求める一次コンテンツと、それを題材にした二次創作的なコメント、さらにそのコメントのコメント……というように、評価を求める連鎖が果てしなく続いていくことになりかねない。
これは、不毛だし、見苦しく思う。
純粋な感想の需要
この不毛な争いを止めるには、誰かが「あー、面白かった」と言えばいい。つまり、純粋な感想を言えば、そこで終わらせることができるのである。
純粋な感想とは、コンテンツの純粋な受け手であり、それ以上、自己顕示欲の連鎖が続くことを阻止する存在である。
大人が子供の考えたギャグを笑ってあげるように、純粋な受け手になってあげることが、現代の自己顕示欲≒承認欲求にまみれた社会に求められており、必要とされる「大人の余裕」なのかもしれない。

