若者は尖りがちだと言われる。
そもそも、「尖る」とは何のか、なぜ若者は尖るのか、そして、どのように尖ること、他者を否定することで、成長・成熟するのか、について論じる。
尖るとは何か
まず、尖るとは何か。それをざっくり言語化する。尖るとは、概ね、安易に大衆に迎合しない姿勢であり、突き詰めると、他者を否定しがちな精神であるといえるだろう。
「尖る」のイメージとして、「俺は他の奴らとは違う」というような雰囲気がしっくりくるだろうが、これは、まさに、他の奴ら=他者を否定しているといえる。
なぜ若者は尖るか
成長のための否定
まず、若者とは何なのか。どのような存在なのか。
若者とは、変革期にあり、自分を変えることを余儀なくされる。
わかりやすいのは、思春期だろう。思春期を通して、肉体的に成長し、大人になる。それに伴って、同時に、精神的・内面的にも自分を成長しようとする。つまり、若者は、自然で外発的な成長と同時に、内発的に自分を自分で成長させようとするのである。
その内発的な成長の過程において必要なのが、「否定」である。なぜなら、成長とは、過去の未熟な自分を否定し、より成熟したあるべき姿になろうとすることだからである。
したがって、若者は、自分を成長させ、成熟させるために、自分自身を否定しようとするのだ。
だが、そうであれば、なぜ尖る=他者を否定するのか。
自分を他者に投影する
それは、他者に自分を投影するからである。
他者に対して、自分と似ている点があると思うことは多いだろう。それは、仲良くなるための話の種になることもある。
だが、他者について、何か嫌いな性質を見出すときに、それが実は自分のなかにもある性質で、無意識的に自分が嫌っている性質である、ということもある。
たとえば、ある卑怯者のキャラクターを嫌いになった原因が、実は、自分のなかに卑怯さがあって、それを目の前に突きつけられているような気がするから、ということはありえるだろう。
このように、自分のなかにある自分でも否定したい性格・性質というものは、他者を通してだと目につきやすい。
ゆえに、自分を否定し、成長したいと思う若者にとって、他者とは、自分の未熟な点・嫌なところ・否定したいところを映す鏡のようなものとして作用してしまう。だから、若者は自己否定の前に、他者否定をする、すなわち、尖るのである。
成熟と客観視
他者否定の未成熟さ
このような他者否定は、無自覚に基づいている。
第一に、自分のなかにある自分の嫌なところに無自覚である。
第二に、他者にそれを投影しているいるがゆえに、他者を否定していることに無自覚である。
第三に、否定すべき対象を他者にすり替えていることに無自覚である。
これらの無自覚は、未熟さがゆえのことである。
なぜなら、これらのことを自覚することは、自尊心を傷つけるからだ。未熟な精神にとって、それは耐え難いことである。
また、未熟であるということは、大抵、感情的であることを伴う。感情的であると、こうしたことを自覚するより先に、他者への嫌悪が先行し、自己を振り返ることができないだろう。
他者否定から自己否定へ
だが、この尖るという過程、すなわち他者否定の過程を通ることで、確かに自己成長につながる。
なぜならば、他者を否定したその理由は、自分に返ってくるからである。卑怯だといって他者を否定した以上、自分は卑怯でないようにしなければならない。
その結果として、他者否定を通じて、自分を否定し、成長させることにつながっているのである。あるいは、否定していた点が自分にもあることを自覚し、それを許容するようになるのである。
こうした過程を経ることで、振り返ってみて、他者否定が自己否定の投影だったということに気が付く。つまり、自分の感情や思考を一段高い位置から俯瞰して見られるようになるのである。要するに、客観視できるようになるのである。
まとめ
人は、自分のことについて正しく理解し、反省することが難しい。反面、他人に対しては、色々な面が見えやすいこともある。
ゆえに、「人に厳しく自分に甘い」という言葉がよく使われるし、「人の振り見て我が振り直せ」ということわざも生まれたのだろう。
いずれにせよ、人に何か思うことがあるなら、それは、自分に対して何か思うことがあるからかもしれないということを理解しておくのは大事なのだろう。