イチローの「叱ることすら難しい今の世の中、自分で反省や努力できない人が更に生きづらくなり差が広がる」という発言について分析する

元野球選手のイチローが、「叱ることすら難しい今の世の中、自分で反省や努力できない人が更に生きづらくなり差が広がる」といった発言をした。[1]

この発言の趣旨は、昔であれば、監督的立場の人が、叱ってくれたから、自分で自分を律することができなくても、強制的に努力することができた。だが、今は叱ってくれる人がいないので、自分で自分を律して、努力しなければいけない。そうなると、それができる人とできない人で差が広がる、というものだ。

この発言について賛否両論で、議論が巻き起こっているらしい。

この記事では、この発言についての賛否を論じるのではなく、この発言の内容を分析して、敷衍して考える。

 

現代はなぜ叱ることが難しいか

叱ることができない社会の構造

まず前提として、今も昔も、人自体は大きくは変わらない。であれば、変わったのは環境である。

では、環境がどう変わったのか。一言で言えば、ハラスメントが取り締まられるようになった。

具体的は、ハラスメントを許さない価値観が広まったことと、ハラスメントに対する制裁を課すシステムができたということだ。

このような新しいシステムができると、新しいシステムに付き物のシステムの悪用で、ハラスメントじゃないような行為もハラスメントだと訴えられるようになる。

普通なら、そのような悪用を排除しながら、システムは完成されていくのだが、この問題は厄介だった。なぜなら、ハラスメントという概念が、ほとんど定義不能であるからだ。

たとえば、「相手がハラスメントだと感じたら、ハラスメント」というものがあるが、これは、同語反復だ。あるいは、「相手が嫌な気持ちになったら」というものもあるが、実際に嫌な気持ちになった行為を全てハラスメントとするわけにもいかないし、どこからがハラスメントなのかの線引きはほぼ不可能である。

というわけで、ハラスメントは取り締まられるが、そのハラスメントとは何かが定まっていないという状況が生まれた。

この状況は極めて問題だ。なぜなら、何をしたら罰を受けるのかが十分に定まっていないからだ。

このような経緯から、人々は、罰を受けたくないから、全員が安全マージンをとって人とコミュニケーションをとるようになった。これが、現代社会の問題である。

そして、その問題のなかに、人を叱れないという問題が含まれている。

昔と現代の比較

現代は人を叱ることができない。正確にいえば、叱りにくい環境である。それはそもそも、ハラスメントの取り締まりを強化したからである。

つまり、現代は、「ハラスメントがない」+「叱ることができない」という社会である。

そして昔は、「ハラスメントがある」+「叱ることができる」という社会である。

ハラスメントとは何かを合理的に線引きして、この問題を解決しない限り、ハラスメントのある・なしと、叱ることができる・できないは、トレードオフのままである。

どっちが望ましいのかは、社会が、ハラスメント禁止の強化と緩和を、行ったり来たりしながら決めるだろう。

 

叱ることが難しいと、「反省や努力ができない人」が生きづらくなるのか

叱るという外圧

叱ることは、叱られる人に対して、外圧を加えることである。その外圧によって、人に何かをやらせたり、やらせないようにする。それを積み重ねていった結果、仕事ができるようになる。それは、叱られる人にとって良いことのように思える。

だが、叱ることは、叱られた人に、あくまで受動的な動機づけをするに過ぎない。

そもそも、叱られる人は、叱られたからといって、すぐに仕事ができるようになるわけではない。叱られた後に、何らかの「反省や努力」をするから、仕事ができるようになるのだ。

そして、叱ることは、その反省や努力をさせる外圧であり、それを行う動機は、「叱られたくないから」という受動的なものになるだろう。

叱ることと受動性

この「叱られたくない」ことを動機に、反省や努力をした場合、短期的には能力向上に貢献するだろう。だが、その人本人が、自発的に反省し、努力しないかぎり、根本的に成長することはなく、能力は頭打ちになるのではないかと思われる。

なぜなら、叱られたくないことが動機ならば、叱られないことが目的になる。となると、叱られないラインまでしか努力をしないだろうからだ。

実際、部活でやりたくもない練習をさせられているときに、ただノルマをこなすことだけを目的とするため、自発性などないだろうし、自分の成長を目指してもいないだろう。

確かに、それでも努力をすれば、ある程度の成長はする。まずは、その成長を「叱る」という外圧によってさせてあげた上で、そこからは自分で努力するというようにできればいいのかもしれない。

だが、能力は成長していても、メンタル・精神は成長していないどころか、「叱られないためにやる」という消極的で、今後の成長を妨げるメンタルに劣化している可能性がある。

受動的人間と社会

ただ単に、言われたことをこなす能力さえあればいいなら、それでもいい。実際、これまでの社会は、言われたことをある程度できればよかった。

だが、そういった教育の結果、人から叱られないように、言われたことだけをやるという、自発性も創造性もない人間が増え、結果として社会の停滞につながったのではないかと考えることもできる。

そもそも、人生のどこかの時点で、自分で自発的に反省し、努力して何かを成そうとしなければ、その人が幸福になることはないだろう。であれば、目先の能力向上のために、受動的なメンタルを植え付けるよりも、全て自己責任で放任する社会の方がいいのかもしれない。

 

批評のまとめ

ハラスメントがない代わりに、叱ることのない社会がいいのか、ハラスメントはあるが、叱る社会がいいのか。

叱ることである程度の能力をつけさせる代わりに、自発性のない人間を育てる方がいいのか、能力が全くない人間を生むリスクを背負う代わりに、放っておいて自発的に成長させた方がいいのか。

これらは、社会の直面するトレードオフである。どちらかを選んだら、社会は、そのメリットもデメリットも受け入れなければならない。

少なくとも個人は、時代がどうあろうと、究極的には自己責任であるという、物事の本質を考えるべきだ。それは、自分がどう生きるかは、自分で考え、決定するというごく当たり前のことだ。それが、個人の幸福を決めることである。

 

注釈

[1]おそらくテレビでの発言。似たような趣旨の発言は度々している。

https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2023/11/06/kiji/20231106s00001002555000c.html