「情報を食う」のは間違っているのか

  • 2025年5月9日
  • 2025年5月9日
  • 批評

『ラーメン発見伝』という漫画に、「客は情報を食ってる」というセリフがある。これは、その漫画に登場する飲食店の店主の言葉である。その経緯は、客がとある料理についての宣伝文句に乗っかり、実際にはしないはずの味をありがたがっている。つまり、客は、実際の味ではなく、情報を食っているのだと言ったことにある。

この文脈では、情報を食っているというのは、悪い意味で使われている。するはずのない味を、情報に惑わされてするかのように感じているからだろう。

だが、そもそも、それは悪いことなのか。そのことついて考える。

 

実際の味と感じている味

「情報を食ってる」として問題とされている点は、実際の料理の味ではなく、情報によって感じるはずのない味を感じていることにある。つまり、情報によって感じる味は、間違った味であるとされている。

この結論に至る前提を分析する。

①実際の味というものが存在するとされている

まず、実際の食べ物の味が存在するとされている。

なぜなら、情報によって、実際には感じるはずのない味を感じているとされているということは、裏返せば、実際に感じるはずの味が存在するとされているはずだからだ。

そして、その実際の味は、料理のなかにあると考えられている。たとえば、ラーメンのスープに煮干しを使っているなら、そのラーメンには煮干しの味があるし、その味がするはずだと考えている。

②実際の味は食べ手の味覚とは独立に存在するとされている

次に、その実際の味は、食べ手が感じる味とは独立して存在するとされている。実際の味と感じる味を分けている以上、そう考えていることは明白である。

このように、実際の味が独立してあると考えるということは、味とは味わわれることによって生じるのではなく、感覚から独立して、それ自体として食べ物のなかに存在すると考えることである。いうなれば、味を実在論的に考えているということである。

③実際の味と食べ手の味覚では、実際の味が正しいとされている

そして、実際の味と食べ手の味覚では、実際の味の方が正しいとされている。

現に、「〇〇味がするはずだ」、「〇〇味はするはずがない」と考えるということは、料理や食材に含まれる実際の味の方が正しく、それに基づかない感じられた味は間違っているとされている。

 

情報によって感じる味は間違っているのか

このように、「情報を食ってる」という批判の前提には、実際の味と感じる味の二項対立が存在し、実際の味が正しい、つまり、感じるべき味だとされているのである。

では、実際の味に基づかない味を感じることは間違っているのか。すなわち、情報による影響を受けて感じる味は、間違っているのか。

これを考えるためには、味覚についての前提を問い直す必要がある。

味覚=実際の味を感じるは正しいか

味覚とは通常、実際の味=目の前の食べ物の味を感じる感覚だとされる。たとえば、目の前のレモンを食べれば、酸っぱいと感じる。この場合、この酸っぱさを感じている原因は、味覚が、目の前のレモンの味を感じ取ったからだと考えられている。つまり、味覚は、目の前の食べ物の味と対応していると考えられている。

しかし、味覚とはかなりいい加減なものでもある。たとえば、何かを食べているときに、まわりに匂いの強い別のものがあったら、その別のものの味を感じてしまうことがある。

また、かき氷のシロップが代表的であるが、着色料や香料などによって、実際にはしない味を感じることは一般的である。

さらに、見た目の良い料理を美味しく感じたり、実際には味に大差がなくても、田舎の水を美味しく感じたりする。

味覚は味だけを感じるのではない

このように、味覚とは、それ単独でしっかりした感覚を得るものではなく、他の感覚や思い込みによって左右される感覚なのである。そして、それは一般的な現象である。誰しもが、上記したような、直接味とは関係のない味を感じたことがあるだろう。そう考えると、味覚とはそもそも実際の味だけを感じる感覚ではないということになる。

であるならば、他の感覚や情報によって味を感じるという現象は、味覚の不完全性なのではない。むしろ、それも含めて味覚なのである。さまざまな要因が複雑に絡み合った結果を、味として感じるのが味覚であるといってよいだろう。

よって、情報によって味を感じることは、本来の味覚、あるいは味を感じるシステムであり、間違っていないということになる。

 

原理的に考えることの問題点

このように、味覚がさまざまな要因に左右されることは、本来ならば、誰にとっても明白である。ではなぜ、味覚を、目の前の食べ物の味のみと対応させ、それ以外の味を感じることを批判するのか。

その根本的な原因は、すべてを原理的に正しいか否かで考える精神にあるだろう。

その精神は、今回の例でいえば、使われていない食材の味がすることは、「原理的に」ありえない。よって、それは間違っていると、考える。

このような考えは、原理的な正しさという尺度によって、全てを真か偽かに分類する。

この精神は、人間の感覚から独立した物質の世界に正しさの根拠があると考える。つまり、原理的に正しいかとは、科学的に正しいかと同義であり、すなわち物理的に正しいか、でもある。

こういった原理的な正しさが重要な場面は多くあるが、日常においては、原理的・物理的に正しいかよりも、どのように感じるかが重要な場面が多いだろう。今回の味覚に関する問題も、実際の味がどうであるかよりも、どんな味を感じるかのほうが重要だ。

つまり、原理的な正しさを振りかざすことは、誤りである場面も多いのである。それは、子供に「サンタクロースがいるのか」を問われたことを考えれば容易に想像がつくだろう。

 

まとめ

結論として、味覚とは、さまざまな感覚や情報の影響を受け、それらが総合的に味として感じられるという感覚なのである。よって、使われている食材の味のみが物理的に感覚されるわけではない。

なぜ、感じるべき味・本来の味を想定するのかというと、原理的な正しさを感覚ではなく、物理的な世界に求める精神をもつ場合があるからである。

このような精神については、今後考える必要がある。