昨今の選挙において、「日本人ファースト」という標語が話題になっている。それに伴って、この標語「日本人ファースト」は差別なのかという議論も巻き起こっている。
この記事では、「日本人ファースト」、つまり自国や自分の組織を優先することが差別なのかを考えていく。
日本人ファーストが差別になる場合
まず、自国ファーストが差別になる場合を考える。
それは、自国民を優先するあまり、外国人を過剰に軽視し、外国人に人権があることを否定する場合である。人権とは具体的にどのような権利なのかについて、議論があるかもしれないが、人権自体を否定することはできない。これを否定してしまうと、外国人を人としては扱わないということになる。このような主張は、現代社会においては、あり得ないことだ。
日本人ファーストが差別にならない場合
次に、差別にならない場合を考える。
それは、自国民を外国人より、さまざまな制度によって優遇することである。なぜこれが差別にならないかというと、そもそも国というのは、その国民のためにあるからである。
自分たちの国は、自分たちが働いて、自分たちが選択して作ってきた。つまり、今ある国の有形・無形の財産は、基本的には自国民によって、自国民のために作られたものである。ゆえに、当然、自国民がまず第一に権利を持つべきであり、自国民が外国人よりも優遇されることは差別ではない。
権利の構造
上の議論を、図で表すと以下のようになるだろう。人権は、万人を対象としており、国民の権利は自国民のみを対象とする。
自国ファーストについて議論するときには、この権利の構造を出発点とすることが、合理的である。そして、この二つの出発地点は、自国ファーストについて考えるときに、極端にならないような制限をつける役割を果たす。
人権を尊重することは、自国ファーストを推し進めるあまり、排外主義・差別主義になることを防ぐ条件となるし、国民の権利は、自国ファーストに反発するあまり、自国民の権利の軽視をすることを防ぐ条件となる。つまり、この二つの条件が、過激な主張に対する防波堤となるのである。
日本人ファーストの議論の本質
以上のことを前提とした上で、日本人ファースト・自国ファーストの議論が、実際には何を問題としているのか、その本質を論じる。
問題の本質は、人権が保障する権利とは具体的には何なのか、である。つまり、人権と国民の権利の差は何なのかである。
人権によって明らかに守られるべきなのは、身体・精神の自由や所有権といった最も基本的な権利だろう。誰であれ、暴力を振るわれてはならないし、誹謗中傷をされるべきではない。
では、たとえば、生活保護のような最低限の生活の保障といったことは、権利として付与されるべきなのか。より本質的には、資源(お金・時間など)を割く必要のあることを、権利に含めるべきなのか。
要するに、日本人ファーストの問題の根本は、外国人に対して、コストのかかることを権利として保障するべきなのかということにある。
このことを考えるためには、集団の存在意義について考えなければならない。
集団の存在意義
国や会社、家族などの集団とは、そもそも何なのか。
集団がもたらすものは、精神的な連帯感や帰属意識など、さまざまあるだろう。だが、集団の最も本質的な存在意義は、集団の内部と外部を分けることにある。あるいは、集団とは、近い存在と遠い存在を分ける装置であるともいえるだろう。
つまり、集団とは、その外部から内部を守り、内部の人間同士を仲間として結びつけるものである。その具体的な結果として、限りのある資源を集団内で分け合うことになる。
したがって、集団は、内部を特別視し、仲間として優遇するものである。そして、資源が限られている以上、その資源は、集団内部に優先することが、集団の存在意義からして当然である。
ゆえに、自国民、仲間、家族という集団が、その集団に属する人の利益を第一に考え、外部の人間よりも優先することは、当然である。
以上から、自国ファーストが差別であり撤廃するべきだという主張は、この世から国や家族などの集団そのものをなくす必要性があるため、実現不可能な主張となる。
コストのかかることを権利として保障すべきか
以上の議論から、集団とは、その内部の人間を外部の人間から守り、優遇する装置であることが結論づけられる。
そのため、本来であれば、外国人に対して、コストのかかることを権利として保障するべきではない。そういった権利は、自国民に対して行うべきである。
ただ、結果的に自国民の利益になると考えられる場合は別である。
たとえば、難破して日本に漂流した外国人を保護することは、コストがかかる。だが、そういった外国人を保護することで、逆の立場になった時に日本人を保護してもらえるようになるのであれば、保護するべきだろう。それが自国の利益になっているからである。
なぜ、日本人ファーストに反発するか
以上に論じてきたことは、すべて当たり前のことであり、自然の摂理といえることである。では、なぜこれに反発する人がいるのか。どのような人がこれに反発するのか。
まずは、わかりやすい場合を挙げる。
第一に考えられるのは、外国人や外国人優遇によって利益を得ている人である。これは、理解しやすい。
第二に考えられるのは、自国ファーストとわざわざ言うことに対して抵抗がある人である。確かに、自国ファーストと声高に叫ぶことは、少々品格に欠けることではある。だが、それは、わざわざ言う必要がないと思っているということであり、根本的にはこれに賛同しているということでもある。ということは、本質的には、自国ファーストに賛同ということである。
以上は、自国ファーストに反対するわかりやすい理由だろう。
だが、これらのわかりやすい動機があるわけではない人もまた、自国ファーストに反発している。なぜ、そういった人々が自国ファーストに反発するのか。その原因にこそ、この自国ファーストに反発する心理の本質があるように思われる。
集団が作り出す疎外感への反発
結論から言えば、自国ファーストに反発する理由は、集団が本質的にもたざるを得ない排他性にある、と考えられる。
上記したように、集団とは、その内外で人を選別し、区別するものである。これは、集団の外の人間からすると、排他的であると感じられるだろう。そして、この排他性は、差別的、あるいは暴力的であるというような感覚を与えうるものでもあるだろう。
そして、集団がもつ排他性は、元来すべての集団がもつものではあるが、とりわけ自集団の利益を主張する場合に表面化しやすい。つまり、「自分たちの利益を守ろう」と表立って主張する集団ほど、本来全ての集団がもっている排他性が、表に見えやすくなる。
そのため、「日本人ファースト」などの自国ファーストに対して、反発をする。
疎外されることに敏感な被害者意識
そのような排他性による疎外に反発するのは、ある意味当然である。大なり小なり、実体験として、疎外された経験をもたない人は存在しないだろう。
だが、このような疎外に反発し、それを世の中からなくすということは、上記したように、この世から国や家族などの集団をなくすということである。それは望ましいとは思えないし、不可能だろう。
そもそも、人は何かしらの集団に属している。ということは、集団による疎外を訴えている人もまた、何かしらの集団に属しているのであり、すなわち、彼らもまた誰かを疎外しているのである。
このような自分たちが誰かに疎外されているという被害意識には敏感だが、自分たちが誰かを疎外するという加害意識には鈍感であるという精神は、健全で成熟したものとはいえないはずだ。
あるべき姿
では、あるべき姿は何か。
それは、集団が内側を優先するという現実を受け入れ、自分もその恩恵に預かっていることを自覚すること。そして、異なる集団に属する人にも、属する集団があり、優先すべき存在があることを理解すること。
その上で、互いの立場を尊重し合えるのなら、お互いの利益に適う範囲で、お互いにやりとりをすること。
こういった姿が本来あるべきなのだと思う。