生きていると何かしら気になることがある。
気になることを言われたり、相手に気になることがあったり、自分に対して気になることがあったりする。
そんな気になることを、誰かに相談すると、「気にしなくていい」と言われたりする。自分も誰かに言ったりする。
でも、「気にしなくていい」と思えるのは、結構、特権的なことなのかもしれない。
「気にしなくていい」と思えるということは、それが気にするまでもないことだと思えるということだ。つまり、そんなことは、小さなことだと思えることなのだ。
小さなことであれば、気にする必要はない。他にもっと大事なことがあるし、それを気にする必要があるからだ。
逆に言えば、他にもっと大事な、気にするべきことがあるから、それを小さなこと、気にする必要のないことにできるのだ。
こう考えると、何か気になることや悩みを、気にしないでいられるということは、その人に、明確に大事なものがあるという証拠なのだろう。
それが自分のなかで、確固たるものとしてあるからこそ、他のことを気にしないでいられる。何か他のものに自分を揺らがされることがないのである。
そんな確固たるものとは何なんだろうか。どうすれば、それを持てるのだろうか。
確固たるものは、言い換えれば、自分のとっての拠り所といえる。何か自分に欠点があっても、「自分にはこれがある」と言える強みが、拠り所だろう。
そんな拠り所があればいいが、それを作るのはなかなか大変そうだ。
なぜなら、拠り所には理屈があるからだ。拠り所は、他人に対して、自分は「こんなことができるんだ」と言える必要がある。他人に対して、自分の強みを証明しないといけない。自分を他人と比較してアピールしなくてはいけない。
そこには、就活のような息苦しさがある。
では、確固たるもの・拠り所を、他人と比較しないで、理屈なしで作ることはできるのだろうか。
確固たるものや拠り所は、自分の「気にしてしまうこと」や悩みを小さくしてしまうような、自分にとって大事なことだった。
自分にとって大事なこと、つまり、自分だけでもそれを大事だと心から確信できるものがあればいいのだ。
その瞬間、心から自分が楽しんでおり、やるべきことをやっていると思えること。
それが、自分にとって、大事だと確信できることだろう。
それが見つかれば、自分にとって大事なことがはっきりし、他の些細なことは、遮断され、やるべきことが明確になる。
自分のやるべきことが理解できている。それは、自分の使命がわかっているということで、自分は、自分の収まるべきところに収まっているということだ。
自分の使命を理解し、自分のやるべきことをしているならば、自分は自分にとって味方であり続ける。他の何かを気にする必要もなくなる。
つまり、自分の心を見つめること、自分の心を信じること。そして、余計な常識に邪魔されず、心のままに進むこと。
それは、自分がどうありたいのか、自分の心に問えば、さほど難しくはない。
それを見つけたならば、他人に対して、何かを証明する必要もない。
自分が自分の心に従い、正しい道にいることを確信できれば、些細なことは「気にしなくていい」と思えるようになる。

