教養という言葉がもてはやされ、教養という言葉を冠した書籍が店頭に並び、人々がそれを買い求めるという現象が、ちょっと前まであったように思える。
それが一時のトレンドなのか、それとも永続的な現象なのかはわからないが、人は「教養」という文字に惹かれるらしい。あるいは、それがもつ「頭が良さそうな」雰囲気に惹かれるのかもしれない。
しかし、教養には、同時に、古臭い雰囲気もある。そこにはなんとなく、昭和、あるいはそれ以前の時代の埃を被った知識、あるいは知識人という印象がある。
単に古臭いだけならまだいいが、昨今の知識人のイメージ悪化に伴い、教養に否定的な印象がついてしまうことも時間の問題かもしれない。あるいは、もうすでにそうかもしれない。
そうなると、教養の良い側面もまた捨て去られてしまうことになる。多分、それはあんまりよくない。
教養の良い側面はいくつもあるだろうが、その本質は、共通認識をつくることだろう。要するに、話の通じる共通の知識という土台を作るということだ。
この土台として、従来は、神話だとか、歴史だとかが選ばれていて、そういう知識を土台=前提にして、話ができると、「教養のある」人とされてきた。たとえば、映画にりんごを齧るシーンが出てきたら、アダムとイブの話を連想するとか。
アダムとイブはまあ今でも教養だとしても、時代と共に、教養の内容も変える必要があるだろう。教養を時代に合わせれば、古臭いという印象も、イメージの悪い知識人を連想することもなくなる。なぜなら、新しい教養を作れば、当然古臭くもないし、古い知識人はそれを知らないからである。
新しい教養という名前だと凡庸だから、名前を変えてもいいかもしれない。
いずれにせよ、新しい教養を作るならば、形式化して形骸化した教養に対抗して、教養の本質的な意味に立ち返らなくてはならないだろう。
本質とは、共通認識であった。
だが、一口に共通認識と言っても、人によって求められる「共通」は異なる。年齢、性別、職業、趣味、こういった属性に応じて、共通認識として求められるものは変わるのは当然だ。
であれば、教養もいくつかのカテゴリーに分けるべきだろう。とりあえず、ざっと以下の通りに分けてみる。
①コアの教養
全員が知っていること。一般常識。
中学レベルの知識≒リテラシー
②流行の教養
今は流行っていること、話題への最低限の感度。
③専門性の教養
職業的専門性、仕事をやる上での専門的知識。
④趣味の教養
その人の趣味にもとづいたプラスアルファの知識。
従来の教養のほとんどはここに入る。
この四つのカテゴリーの教養を人はもっていて、相手との関係に応じて、カテゴリーを使い分けている。
仕事相手なら③、友達なら②とか④のように。
とりあえず、今回は、新しい教養の必要性と、教養の本質への立ち返り、そのカテゴリー分けを行った。
まだ議論が荒いので、今後も更新していく。

