高市氏への「推し活」
先日、駅前で、高市早苗首相の選挙演説を聞く機会があった。
といっても、駅の通路が埋め尽くされていたほどの人が集まっていたので、高市氏の顔は全く見ることができなかった。
そこに集まっていた人は、選挙に熱心な高齢者はもちろん、若い女性も結構多かった。
皆、自民党のパンフレットのようなものを持ち帰り、満足げに帰宅していたのが印象的だった。
そんな光景を見ると、この演説が、通常の選挙演説とは、異質なものであるように思えた。
なぜなら、集まった人々は皆、選挙うんぬんは抜きに、人として、高市さんを応援したいという気持ちで集まっていたように思えたからだ。
この現象は、別の人も指摘していたが、「推し活」に近いなと肌で感じた。
推し活と聞くと、そんなもので、国の行末を決める選挙の投票されては困るという意見がまず聞こえてくるだろうが、案外推し活的な選挙も悪くないのではないかと思う。
その理由は2つある。
推し活選挙のメリット①
第一に、今までの選挙も、推し活的な選挙であったという点である。
そもそも、今も昔も、多くの人は、公約を見ない。そして、よくわからないまま何となくで投票する。
ということは、今までも、候補者の何となくの雰囲気で投票していたということであり、その点では、ずっと推し活的だったのだ。
昔の選挙に推し活的要素が少なかった原因は、単にこれまでは、候補者のSNSなどでの露出が少なく、推すに至るほど、その人のことを知らなかったというだけである。
だったら、思い切って、候補者の人柄を全面に押し出して、推してもらえるようにして、選挙をやったほうが、むしろ、いい人を選べるのではと思う。
メリット②
第二に、人は、理屈的に考えるよりも直感の方が優れているという点である。
おそらく、ほとんどの人にとって、政党間の公約を読み比べて、どれが合理的かを比較するという理屈っぽい作業よりも、その人の何となくの印象とか、言動からどんな人かを見抜く方が得意である。
直感的判断の罠については色々研究されているが、その人を信用できるのかを見抜く場合、この直感的能力のほうが、信頼できるのではないか、と思われる。[1]
少なくとも、公約を読まない人が大半で、かつ、掲げた公約を平然と破る政党が大半な現状で、公約を頼りに選挙をするよりも、「いい人そう」で選挙した方が、まだマシであるのは確実だろう。
どんな公約を掲げても、破られたら何の意味もない。当たり前のことである。
大衆煽動を見抜けるか?
ただ当然、これを加速させると大衆煽動的な政治家が出てくるだろう。(もう出てきているかもしれないが)
だとしても、案外、人々の、人を見極める能力は、信用できるような気もする。
それは、推し活という言葉が登場する前から、人が人を応援する過程で、
・応援に応えてくれる人(ちゃんとファンを大事にする人)
・そうでない人(たとえば、不祥事を起こす人)
に対する見極めの能力が社会的に蓄積されているような気がするからだ。(アイドルやスポーツの応援文化の歴史は長い)
要するに、人々にとって、推し活的な「いい人」を見抜く能力の方が、動物的にも、今までの蓄積的にも優位であるのであれば、それを活かした方がいいだろうということである。
ということで、今回の推し活選挙は、安易には批判できないと考えられるのである。
注釈
[1]人が信用できるか判断する際の、直感の優秀さについては、以下を参照
・「シン・スライシング」の理論
・Willis, J., & Todorov, A. (2006). First impressions: Making up your mind after 100 ms exposure to a face. Psychological Science, 17, 592–598.
→100msというごく短い間に判断された、見知らぬ人の第一印象が、時間制限なしの判断とほとんど同じであったことが示された
直感的判断が陥りやすい罠については、
ダニエル・カーネマン『ファスト&スロー』に詳しく載っている。

