夏目漱石の個人主義について—『私の個人主義』を読む—

  • 2025年8月22日
  • 2025年8月23日
  • 作品評

『私の個人主義』はどんな本か?

概要

『私の個人主義』は、夏目漱石が行った講演をまとめたものであるため、短く、口語調で読みやすい。

また、漱石の小噺や軽妙な語りが面白い。

反面、本題に入るまで長かったり、脱線があるため、評論として読むとじれったいかもしれない。

論の内容はシンプルでわかりやすく、腑に落ちる。現代的テーマでもある。

おすすめする人

・漱石が好きで、漱石の語りを読みたい人

・漱石の苦悩とたどり着いた境地から知恵と勇気を得たい人

・個人主義について考えたい人

総じて、古典として読んだ方がいい作品だろう。

入手方法

青空文庫:https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/772_33100.html

書籍:「ちくま日本文学全集 夏目漱石」など

 

『私の個人主義』の要約

構成

この本、講演は、大きく3つに分けられる。

まず、冒頭。これは、本題に入る前の話で、講演に至る経緯などが語られる。

次に、第一編。ここでは、漱石が「自己本位」という考えに至る経緯と、自分の進むべき道へと至ることの大事さが語られる。

最後に、第二編。ここでは、学習院に通う高貴な学生のために、権利に伴う義務や人格について語られる。

冒頭

冒頭は、講演の経緯について語られる。本題へ急ぐなら飛ばしてもいい。

落語の話

おもしろいのは、漱石が引用した落語の話だ。

目黒のあたりで迷って空腹になった大名が、仕方なく小汚い百姓の家で食べた秋刀魚が非常に美味であったため、後日、料理人に丁寧に調理させた秋刀魚を食べたところちっとも美味しくない。大名は、「秋刀魚は目黒に限る」と言った。

これは、味は当然料理人に調理させた秋刀魚の方がうまいが、道に迷い空腹であるということが、それ以上に秋刀魚を美味く感じさせるということである。

それになぞらえて、学習院という立派な大学で、立派な教師がいるのに、他所から招いた漱石をありがたがることのわけを、漱石が謙遜しつつ説明している。

学生・教師時代の話

漱石が、学生のときには、講義をほとんど聴いたことがなかったし、周りもそうだったとのこと。明治の頃から大学生はさぼりがちであったのかと思うと面白い。

その後、漱石の就職や教師時代についての話が続く。

 

第一編

①文学とはなにか?迷いの時期

漱石は学生時代に英文学を学び、教師になった後も教えてはいたが、そもそも英文学とは何か、あるいは根本的に文学とは何かが分かっていなかった。

そんななか、漱石は、苦悩の時期を過ごす。長いが引用する。

私はこの世に生れた以上何かしなければならん、といって何をして好いか少しも見当がつかない。私はちょうどきりの中に閉じ込められた孤独こどくの人間のように立ちすくんでしまったのです。そうしてどこからか一筋の日光がして来ないかしらんという希望よりも、こちらから探照灯を用いてたった一条ひとすじで好いから先まで明らかに見たいという気がしました。ところが不幸にしてどちらの方角を眺めてもぼんやりしているのです。ぼうっとしているのです。あたかもふくろの中にめられて出る事のできない人のような気持がするのです。私は私の手にただ一本のきりさえあればどこか一カ所突き破って見せるのだがと、焦燥あせいたのですが、あいにくその錐は人から与えられる事もなく、また自分で発見する訳にも行かず、ただ腹の底ではこの先自分はどうなるだろうと思って、人知れず陰欝いんうつな日を送ったのであります。

その何をしたらいいのか分からない苦悩が、この文章には鮮明に込められている。

②解決へ向けて。自己本位へ

漱石は、イギリスのロンドンへの留学するも、問題は解決せず、悩みは深くなるばかりであった。

この嚢を突き破る錐は倫敦ロンドン中探して歩いても見つかりそうになかったのです。私は下宿の一間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも腹のたしにはならないのだとあきらめました。同時に何のために書物を読むのか自分でもその意味が解らなくなって来ました。

イギリスに留学してなお、突破口を切り開く「錐」は未だ見つからない。

漱石はそこで初めて、「文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだ」と悟る。

この自力というのが肝心である。

当時の日本には、西洋の批評・意見をありがたがって、無条件に受け入れる傾向があった、という。

だが、英文学には、イギリスの歴史的背景が根源にある。日本人がそのままイギリス人の言うこと鵜呑みにはできないはずだ。

だからこそ、イギリス人の批評家の言うことを、それが正しいのだと受け売りするのではなく、自分の基準でもってそれが受け入れられるのか否かを判断する。仮に、自分の意見と相容れない場合は、なぜ相容れないのかを分析し、説明する。これが大事だ、と漱石は思い至ることになる。

このように、自分に基準を求めることを、漱石は、「自己本位」と呼ぶ。

この自己本位に思い至ることで、漱石は、嚢の中、霧の中から脱出し、進むべき道が明らかになったのである。この感覚を「自分の鶴嘴つるはしをがちりと鉱脈にり当てた」とたとえている。

③道を知ることでの安寧

漱石は、自分の進むべき道を見つけるまで進まなければ、安心は得られないし、また幸福にもなれないと言う。

もし途中で霧かもやのために懊悩していられる方があるならば、どんな犠牲ぎせいはらっても、ああここだという掘当ほりあてるところまで行ったらよろしかろうと思うのです。(中略)あなたがた自身の幸福のために、それが絶対に必要じゃないかと思うから申上げるのです。もし私の通ったような道を通り過ぎた後なら致し方もないが、もしどこかにこだわりがあるなら、それを踏潰ふみつぶすまで進まなければ駄目ですよ。

このように、道に迷っているかもしれない学生たちに対し、漱石は激励を込めたメッセージを送るのである。

 

第二編

①個人主義=自由の相互承認

今でもそのイメージはあるが、当時の学習院に通う学生は、上流階級の子弟が多いとされていた。第二編で、漱石はそんな彼らに向け、注意を促す。

彼らは、権力や金をもっている。権力や金は、自分の個性を拡張していくことに役立ちはするが、同時に、他人を支配し、自分の個性を押し付けることにも使えてしまう。

(中略)自分が好いと思った事、好きな事、自分と性の合う事、幸にそこにぶつかって自分の個性を発展させて行くうちには、自他の区別を忘れて、どうかあいつもおれの仲間にり込んでやろうという気になる。

しかし、そんなことをしてはいけない、と漱石は言う。なぜなら、漱石が自らの個性を伸ばし、進むべき道を得たのは、漱石に自由があったからで、それが認められていたからである。

しかし自分がそれだけの個性を尊重し得るように、社会から許されるならば、他人に対してもその個性を認めて、彼らの傾向けいこうを尊重するのが理の当然になって来るでしょう。

(中略)僕は左を向く、君は右を向いても差支ないくらいの自由は、自分でも把持はじし、他人にも附与ふよしなくてはなるまいかと考えられます。

これは、現代の価値観からしても、当然のことである。というよりも、自分に認められることは、他人にも認めるという相互承認は、人間が互いに平等である限り、普遍的に当然のものである。

この自由の相互承認が、漱石のいう個人主義なのである。

②義務と責任

自分に認められることは、相手にも認めること。この相互主義を敷衍すれば、何かを求める以上、それに相応しいものを差し出さねばならないということになる。

そこで漱石は、義務のない権力はないし、責任のない金力(金の使い方)はないと主張する。

権力は人を従わせるが、従わせる以上、従わせる理由が必要だ。漱石は例として、教師が生徒を黙らせる権力を持つためには、教師が、生徒に黙って聞くだけの授業の内容なり、その人の人格なりが必要だという。

また、金力(金の力で人を動かす)にしても、人を幸福にもできるし、堕落させることもできる。そのため、金を使う人間が、使った結果どうなるかを見通す見識をもっていないといけないし、使い方に責任をもたないといけない。

このように、自由や、権力、財力には、それを用いる人間が倫理的である必要がある。

③個人主義と党派主義

党派心がなくって理非がある主義

人を目標として向背を決する前に、まず理非を明らめて、去就を定める

個人主義と相反するのが党派主義だ、と漱石は言う。

党派主義とは、仲間たちで党派を作って、その党派全体で行動することを言う。つまり、個人の意見ではなく、党派・集団の意見で動くのである。そうなると、いくら自分が理に反すると思っても、党派に従わなくてはならなくなる。つまり、党派主義では、個人の自由はなくなるのである。

これに対して、個人主義は、党派主義と違って、党派を組むことができない。それぞれ個人の意見の自由を尊重するからである。

それゆえに、自分が批判されたときに、他人に、無条件に助力を求めることができない。これを漱石は、個人主義の淋しさだと言っている。

④国家主義

最後に、漱石は、個人と国家の関係を語る。漱石によると、個人主義は、国家主義と相反するものではない。

各人の享有きょうゆうするその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云った方が好いかも知れません、つまり自然の状態がそうなって来るのです。国家が危くなれば個人の自由がせばめられ、国家が泰平たいへいの時には個人の自由が膨脹ぼうちょうして来る、それが当然の話です。

このように、漱石は、個人の自由の前提には、国家の安定性があると考えている。漱石も言うように、これは「事実から出る理論」だろう。ここから、漱石の現実主義的な側面が窺える。

確かに、国の安全が脅かされているときに、皆が個人主義を標榜して、国全体のことをないがしろにしたら、国が滅びる。結果、個人の自由は失われる。

一方、国が安定した状態なのに、個人より国を優先させるということは、人間の性質上、本質的に無理があるだろう。漱石も言うように、人間は、第一義に「自分の衣食の料」を得るために働くのであって、「国家のため」ではない。自分のために働いた結果、「間接的に国家の利益」になりうるのである。

したがって、個人主義と国家主義は相反するのではなく、国の状態によってどちらが表面に強く出るのかが変わるものであるといえるだろう。

 

『私の個人主義』の感想・批評

簡単に、本書を読んだ感想・批評を行う。

①現代人への激励

「やりたいことが見つからない」、「自分探し」といったことが叫ばれる現代において、漱石の生き様は参考になる。

特に、自分は何をすればいいのかを悩み、錯乱までした漱石が、最終的に自分の納得のいくまで突き詰めるしかないと、ある意味開き直る様は、勇気づけられる。

②個人主義と倫理

漱石の唱える個人主義は、バランスがよく、優れていると思う。

まず、個人主義が、人間の自然な性質によること。そして、自分の自由を認めさせるならば、相手の自由も認めねばならないこと。個人の自由の前提条件として、国家・社会の安定があること。

現実に根付き、かつ、社会のあるべき姿を語るという点で、すぐれた主張だ。

③個人と国の関係

「個人か国か」という二元論に陥りやすい議論において、漱石は、その間を現実に即して論じている。

人間は本性的に何をするにしても自分のためである、つまり個人主義である。この個人主義的行為の結果が、国を動かしている。

だが、こういった個人主義が可能なのは、国が安定しているからである。国が脅かされているときには、自然と国家のことをまず考える必要が出てくる。つまり、国家主義になる。

これは、現実的だし、理論的にも正しいように思う。

④道徳的退廃の予言的な説明

戦後、あるいはバブル前後に、日本人の道徳が退廃し、自分が良ければいいといった自己中心主義が蔓延ったというような論調があるが、このことの必然性についても、上の理論で説明できる。

つまり、戦後、時間が経つにつれ、国は発展し、戦争の記憶は遠ざかる。どんどん国が磐石になる。すると、それに応じて、個人主義もどんどん高まっていく。結果、個人主義の負の側面が現れる、といったわけである。

ただし、上述したように、漱石は個人主義を、自分の思うがまますることではないと断言している。そして、自由であることには、義務が伴い、人格的に優れていることが必要だとしている。