今回は、VTuberがなぜ人気なのかについて、考える。
そのために、そもそもアイドルとは何なのかを示して、VTuberがアイドルのいわば進化系であるということを述べていく。
アイドルについてのまとめ
アイドルと宗教は似ていると言われる。アイドルの熱心なファンのことを信者というのも、両者が似ているからだろう。 この記事では、アイドルと宗教に共通する点を分析し、人間の想像力が物理的なモノを超えた世界観を生む原理について論じる。 […]
前回の記事では、アイドルと宗教についてそれぞれ特徴をまとめ、類似点を見出した。
簡単にまとめると、アイドルや宗教は、推しや信仰の物理的対象を超えて、ファンや信者が想像する理想像・信仰対象を実在するとしたものである。
たとえば、アイドルは生身の人間がやっている。だが、生身の人間という物理的対象に対して、人々のあこがれや崇拝が形作る理想像が投影される。その理想像はもはやアイドルの中身を超えて、一人歩きする。その結果、生身の人間ではなく、理想像の方がアイドルであるとみなされるようになるのである。
実際、アイドルの不祥事が起きれば、アイドルとしての資格は剥奪される。また、アイドルを辞めることを、「普通の人に戻る」といった表現をすることがある。これらは、理想像という、いわば虚像の方が本体だとみなされているから発生する現象だろう。
本体なき偶像
こうした理想像の本体からの遊離、一人歩きは、本体と理想像のギャップをますます大きくする。
そして、アイドルは、生身のアイドルではなく、その理想像の方を求められるようになる。つまり、アイドルは、自分自身ではなく、自分自身につけられた理想像、すなわち周りの求める自分にならなけらばならなくなる。その結果、アイドル本人は、しばしば自分自身を見失い、自分自身から疎外されることになる。
このように、アイドルとは、生身の人間からの疎外され、求められる理想像を演じ、具現化する存在であるといえる。
アイドルの到達点としてのVTuber
生身のアイドルは、本当の自分と、求められるアイドルとしての自分の間にギャップが生じ悩む。それは、生身の自分が、そのまま直接アイドルとして表現するからである。これは、生身の人間がアイドルをやる限り、避けては通れない。
アイドルのファンは、生身のアイドルではなく、偶像としてのアイドルを求める。血の通った人間としての側面のいくつかは、アイドルとしてはふさわしくないため、そこを見せないで欲しいと願う。それは、生理的欲求だったり、心理的な弱さだったりするかもしれない。
この不幸は、アイドルが生身の人間という本体をもっており、どんなに理想像によって純化しようとも、その本体との結びつきを切ることはできないがゆえに生まれる。
ではどうすればいいか。生身の人間と結びつかない、本体のないアイドルを作ればいい。そうすれば、そのアイドルは純粋に理想像を結晶化させた存在になれる。VTuberとは、このような考え方を具現化した存在であるといえる。
VTuberは、存在自体がバーチャルであり、生身の肉体を持たない。それに声を当てる人はいるが、おそらくその人とVTuber自体を同一視することはない。つまり、VTuberとは、生身の人間から完全に解放されたアイドルであるといえるのである。
その結果、ファンはVTuberに対して、いくらでも自分の好きな理想像≒幻想を抱くことができる。なぜなら、肉体をもたない以上、その幻想が裏切られることがないからだ。それは、いくらでも理想を投影し、どのようにでもなれる。
本体なきアイドルは、制限なくアイドルとしての理想を叶えられる。これがVTuberである。
生身のアイドルの需要
アイドルについて、理想像が純化され、肉体を遊離する、と論じてきた。
しかし、同時に、「身近な」「親しみやすい」アイドルに対する需要も存在する。また、アイドルの日常も求められている。これらは、アイドルの理想像、すなわち、肉体からの遊離とは正反対の傾向である。それらは、アイドルを生身の人間に差し戻すものである。
では、これらは、アイドルのアイドル性、すなわち、理想像化に反するものなのか。
それについての回答としては、反しない、といえる。
なぜなら、それらの肉体・生身であることは、そこから遊離したアイドルであるということを前提としているからだ。それらは、アイドルというある種の神聖さがあるからこそ、需要がある。一般人が同じことをしても、特に需要はないだろう。
であるならなぜ、「身近さ」や「親しみやすさ」といった肉体・生身であることが、アイドルであることと両立して求められるのか。
それは、おそらく「安全圏からの自虐」のようなものが原因だろう。「安全圏からの自虐」とは、私の造語だが、その顕著な例は、若い女性が、「私、おっさんだから」といったような発言をすることだ。その発言の真意は、自分のことを自分で「おっさん」だと言ってもなお、自分が「おっさん」ではありえないくらいの若さや女らしさをもっていることを他人、または自分自身に確認することにある。
つまり、意図的に自虐することで、たとえ自虐しようとも揺らがないくらいの価値があることを逆説的にアピールしているのである。
これと同じような現象として、アイドルの「身近さ」や「親しみやすさ」の需要があるのだと考えられる。つまり、こんな「普通の人」のようなことをしても、アイドルらしさを失わないということが、アイドルとしての価値を高めるのだろう。
まとめ
「安全圏からの自虐」は少し穿った見方かもしれない。しかし、アイドルが、自らのアイドル性、神聖さを危険に晒して、そういった生身の行為をしていることは確かだろう。
VTuberは、確かに、基本的にはその神聖さが侵されることはない。だが、こういった神聖さを危険に晒すようなことが難しい。それをするには、いわゆる「中の人」との同一視が必要になる。そうなってしまうと、上記した従来のアイドルの問題に逆戻りする。
アイドルのファンは、決して侵されない非肉体的な偶像としての神聖なアイドルを求めるのか、それとも神聖さが侵されうる肉体・生身を求めるのか。
今後のVTuberの動向を見ることは、アイドルとは何なのか、何が求められているのかを理解することにつながるだろう。