メタ的視点についての分析—メタと「エモ」と「ビジュ」との関連—

 

今回は、あらゆるところに溢れるメタ的視点を分析する。

そして、メタ的視点と、「エモ」や「ビジュ」のつながりについても考察する。

 

メタ化の例

ここでは、メタ視点で何かを捉えることを「メタ化」と呼ぶ。メタ化は、日常的にもよくみられる。

例えば、

「こういう何気ない日常が大事だよね」

「こうしていられるのもあと一年か」

「これ映画みたい」

「漫画だったらアツい展開だよね」

こういったやりとりはよくあるだろう。これらは、全てメタ化である。

 

メタ化とは何か?

なぜ、これらがメタ化といえるのか。そして、そもそもメタ視点で何かを捉えるとは何か。

メタ視点とは、現在の自分の状況や感情を俯瞰する視点のことで、当事者である自分の視点から一歩引いて、第三者目線で自分とまわりを見る視点のことである。

たとえば、「これ映画みたい」という感想を言うとき、今目の前で実際に起きたことを、自分の視点から当事者として捉えるのではなく、自分を含めた状況を俯瞰的に眺め、第三者である映画の観客の目線で捉えているのである。

仮に、曲がり角を曲がったら、偶然好きな人とぶつかったとしよう。そのとき、自分の視点=一人称視点であれば、「痛い!けど、ちょっとラッキーかも」というように思うだろう。

だが、そのとき、「これ、アニメみたい」と思う場合、それは自分を含めた状況を俯瞰して、自分から離れた視点で状況を捉えている。つまり、その場に居合わせて、それを今体験しているのは自分だが、自分の思考・心はそこから離れ、不在になっている。そのとき、自分が自分をもう一段高いところから眺めており、これがメタ視点である。

 

メタ化とフィクション

このメタ化は、特にフィクションと相性がいい。

フィクションは、大抵、現実をより劇的に加工した世界である。つまり、フィクションの世界の方が、現実よりも、わかりやすい誇張された世界である。

たとえば、美しい世界の話であれば、その美しさを際立たせるあらゆる仕掛けによって、その世界は現実以上に美しくなるだろうし、災難続きの話であれば、現実にはありえないほどの不幸が連続する話になる。

このように、フィクションは現実よりも強調的であるため、現実をフィクションに見立て、なぞらえるということがしやすい。つまり、フィクションらしい現実を思い浮かべやすいのである。

そして、現実をフィクションみたいだと捉えることはメタ化であるがゆえに、フィクションとメタ化は相性がいいのである。

 

現実のフィクション化

このように考えると、現実のフィクション化とは、メタ化の一種であり、その代表でもある。

メタ化が、俯瞰して第三者視点=任意の視点から、自分とその状況を捉えることであるのに対して、フィクション化は、その任意の視点にフィクションの視点を代入して、捉えることである。要するに、「この状況、アニメとか映画みたいだな」と思うことである。

これは、現実をフィクションの視点から捉えることで、現実に対する純粋な感想・感情に、フィルターをかけるようなものである。それによって、現実感や主観的な感覚を奪うことにもなる。

生身の自分を晒さない

それによって、何が生じるだろうか。

フィクション化は、ダイレクトに現実の状況を捉えることの回避であり、生身の自分の視点を覆い隠すことである。

たとえば、失恋したときに、「これ漫画だったら最悪な展開なんだけど」と言うことで、自分自身の現実をフィクション的視点によって隠蔽し、中和している。言ってしまえば、現実の厳しさ・痛烈さのカモフラージュであり、ダイレクトに傷つくことの回避でもある。

エモさとは?

「エモさ」もこの論理で説明できる。

エモさの例として挙げられる、タバコを吸うこととか、行くあてもなく車を走らせることとか、その他レトロ的アイテムは、それらを退廃的かつ刹那的な演出として利用しているフィクションによって、その雰囲気を裏付けられている。[1]

つまり、それがエモいのは、それがフィクションによって文脈づけられたからであり、現実世界で何かをエモいと言うときには、そのフィクションの文脈で現実を捉えていることになる。すなわち、現実をフィクション化しているということなのである。

ビジュとは?

フィクション化とは異なるが、メタ化の一種として、「ビジュ」という言葉も説明できる。

ビジュという表現は、顔の良し悪しを、コンテンツとしてメタ化させるレトリックである。

容姿についての判断は、本来センシティブな話題であるが、その際に、ビジュという言葉を使うことで、自分の視点からの判断ではなく、コンテンツとしてどうかという第三者的視点に切り替えることができ、そのセンシティブさや複雑さから逃れることができる。[2]

そのセンシティブさとは、主に、嫉妬や劣等感・優越感といった、自分と他人を比較する感情であり、それからの逃避・隠蔽である。

 

まとめ

まとめると、メタ化とは、間接化ともいえるだろう。

メタ視点に立つことで、自分の視点に立たなくてよくなり、自分がダイレクトにその状況・感情・話題に直面しなくてすむ。

これは、非常に有用で、嫌な話を「ネタ」にするときなど、とても役にたつ。そのストレスをダイレクトに受け取らないですむからだ。

だが、現実のフィクション化をやりすぎると、自分の人生をフィクションというフィルターで覆い隠すことに慣れてしまい、現実には何の筋書きも、保護もない生身の人生であるという事実を忘れてしまいかねない。

また、単純に、綺麗な景色を見ても、アニメみたいという感想しか出てこないならば、それは今目の前のことに対して、何の媒介もなく、ダイレクトに自分が何かを思うということができなくなっているようにも思える。それはそれで、虚しいだろう。

 

注釈

[1]

エモさに関するより詳細な分析は以下から

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[2]

ビジュに関するより詳細な分析は以下

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