自分の身の回りのことにしか興味をもたないことを、「自分の半径5メートルにしか関心がない」という言い方をするらしい。
この言い方では「半径5メートル」がネガティブな意味で使われているが、ポジティブな意味で使われることもある。
それが、「半径5メートルの法則」というものだ。googleのAIが以下のようにまとめている。
自分の身の回りや限られた人間関係(半径5メートル以内)から意識を広げ、その範囲を最適化・改善していくことで目標達成や生活の質向上につなげる。[1]
このことが、現代社会においては、重要なのではないかと思う。
現代社会は個人に優しくない。特に、日々生きている具体的な個々の人に寄り添わない。
『モダン・タイムス』でチャップリンが歯車に挟まれる風刺をしてから、90年が経とうとしているが、社会はますます高度に組織化され、人々を歯車に巻き込んで動いている。
社会が組織化されるほど、個人は個々の役割に分解される。大企業では、その会社全体が何をしていて、それを何のためにしているのかが見えづらくなる。各セクションごとに割り振られた目標に終始し、それが最終的に何になるのかがわからなくなる。
そもそも、今やっていることが何のためになるのか分からなければ、それをやることの意義がわからなくなり、その仕事をしている自分の意義もまた分からなくなるだろう。そうして、自分を見失うことになる。
また、デジタル化した現代では、あらゆるものが無限に広がるデジタル世界が、現実世界を侵食している。映画も、音楽も、コンテンツは無限に広がっていて、際限がない。SNS上では、全世界の人々が自分について発信し続けている。
膨大に膨らみ続けるデジタル世界と繋がり、そこから切り離せない現代において、個人はその中で居場所を掴めずに、不安定に彷徨うことになる。
砂漠の中で一粒の砂が無価値に思えるように、巨大化し、無限になった社会では、個人が無価値に思えてくる。そんな現代は、個人にとって不幸な時代であるのかもしれない。
そんな中、個人の居場所を見つけ、個人の価値を取り戻すためには、「半径5メートル」が大事になる。
これはつまり、社会という巨大な組織から個人を見ることを放棄することだ。無限に多いものの中から個人を見るのではない。自分が自分の周りを見るのである。
それは、社会という外界から逃避し、安全な場所へ逃げ込むことだといえるかもしれない。そう言うと、ネガティブに聞こえるが、確実にポジティブなことが含まれている。そこに、自発性が生まれているのである。
無限に広大な世界から自分を捉えると、自分を見失ってしまうが、自分が見渡せる範囲から自分を見ることで、自分を確立し、主体性をもって自発的に周囲を見ることができる。
膨大な量の課題を前にすると気が滅入ってしまうが、小分けにして目の前の課題に集中すると、なんとかなる気がして、ポジティブに、自発的に課題に取り組めるようになるのと似ているだろう。
現代が個人の時代で、個人主義が跋扈していると言われることもあるが、それは、現代が個人にとってあまりに巨大で、個人を見失わせる社会であるがゆえに、個人へ帰ろうとしているからなのかもしれない。