VTuberのアンチの主張について考察する

  • 2025年7月24日
  • 2025年7月25日
  • 批評

前回の記事で、VTuberについて論じた。

そこでは、VTuberとは、従来のアイドルが抱えていた課題を解決した存在であり、ある意味、アイドルの進化系のような存在であると述べた。

そのようなVTuberだが、人気を得ると同時に、否定的な意見も見られるようになった。

今回は、VTuberが否定的に捉えられる原因について考えていく。

 

VTuberへの否定的な意見

まず、VTuberに対する否定的な意見の内容について見ていく。

VTuberはその人気を増すにつれ、同時に批判もされるようになった。その批判の対象は、VTuberとその視聴者・ファンの両方である。

主な批判の内容は、VTuberはただの「絵」であり、「中身」がない。中の人間は、このVTuberの絵のような見た目ではないのに、そうであるかのように振る舞っているのが「痛い」。そして、そのことも分からずに、あるいは、分かっているのに熱を上げているファンもまた「痛い」というものだ。

確かに、VTuberの見た目は、絵であり、実在しないものである。この実在しないものに対して、惚れ込み、恋愛的な感情をもつことは、二次元に恋愛をするオタクに対するのと同じように、客観的に見ると気味の悪さ、いわゆる「キモさ」を感じうることだろう。

 

VTuberは絵に還元されるのか

では、そもそもVTuberを単なる「絵」であるとして、否定することは正しいのか。

VTuberに対して、「所詮は絵である」と批判することは、VTuberを絵と同一視しているということである。そして、その同一視は、VTuberという様々な要素を含んだ総体を、絵という単純な存在に矮小化することである。

このように、何かを単純な存在と同一視し、矮小化することを「還元」と呼ぶ。たとえば、「所詮、人間は物質に過ぎない」とすることは、人間を物質に還元していることになる。

この還元とは、その対象をより単純で、意味のないものと同一視することで、その対象の意味・意義を否定することである。

つまり、VTuberを単なる絵に還元することは、VTuberが実在しないという点において、VTuberを矮小化し、その価値を下げる、あるいは否定するということである。

 

意味の否定の不可能性

では、VTuberを単なる絵に還元することは、VTuberの価値を否定することなのか。

人間は、絵に限らず、あらゆる物理的な存在に意味や価値を見出す。そもそも、人間自体もまた物理的な存在である。

つまり、物理的なモノのレイヤーと、その上に、人間によって見出された意味や価値のレイヤーがあると考えられる。この意味や価値は、目に見えないし、触れることのできないもの、すなわち、実在しないものである。

このように考えると、単なる絵という物理的なモノを価値づけすることは、他の物理的なモノを価値づけすることと変わらず、この還元は、VTuberにのみ当てはまる否定とはならないのである。

したがって、「所詮、絵だ」として、VTuberの価値を否定することはできるが、同じ論理で従来のアイドルを否定することもできるし(例:単なる人間である)、他のあらゆるものを否定することができる。

 

アイドルの条件

逆に言えば、アイドルの条件とは、「所詮〇〇である」というように還元、否定されうることにある。

アイドルとは、人間か絵かはさておき、人間の卑近さを超越した非人間的な理想像である。つまり、アイドルとは、物理的な存在が、そこに付与された価値によって、限りなくその物質性から遠ざけられた存在であるといえる。

ということは、アイドルとして完成されればされるほど、物理的な実在からは離れていき、アイドル本人やファンはそこに形成された主観的な世界に没入することになる。

それと同時に、あまりにも物質からかけ離れたことによって、それを客観視する人(ファンコミュニティの外部)は、批判・否定・揶揄するようになる。

なぜなら、そこに実在からの距離の隔たりという落差があるがゆえに、それを還元することで、その価値や意味を否定する意義があるからである。普通の人間が、普通の人間としてただ存在するだけでは、そこに落差はなく、還元もしようがないのである。

したがって、アイドルとは、「所詮〇〇だ」と言われることが、ある種の宿命であり条件なのである。