リラックスとは何かを哲学する1

今回の哲学チャンネルのテーマは、リラックスとは何かについてです。

現代人の忙しさやストレスが叫ばれるようになって久しいですが、それと同時に求められるようになり、今では日常に定着しているのがリラックスでしょう。そんな現代社会を象徴するようなリラックスとはいったい何なのかについて、哲学的に考えてみたいと思います。

 

リラックスという言葉の意味と具体例

最初に、リラックスという言葉が何を意味するのか、そして一般的にリラックスをするとは何をすることなのかをみていきます。

言葉の意味

リラックスとはもちろん英語のrelaxから来ている言葉ですが、英和辞典によると、英語のrelaxはくつろぐ(くつろがせる)、緩める、和らげるといった意味があるようです(ジーニアス英和辞典)。広辞苑でも、だいたい同じように、くつろぐこと、力を抜くこと、緊張を緩めることといった意味が載っています。

では、具体的にくつろぐ、緩めるために何をするのか、例を挙げてみましょう。

リラックスの具体例

リラックスするための行為として、これらの行為が挙げられるでしょう。

  • 深呼吸
  • 寝る
  • 風呂に入る
  • 軽い運動をする
  • 音楽を聴く
  • 本を読む
  • 映画を見る
  • キャンプをする

これらの行為は、代表的なリラックス方法とされています。

しかし、これらの行為は一見すると共通点がなく、どうしてリラックス法として有効なのかが分かりにくいでしょう。

そのため、次の章では、これらの行為の共通点をいくつか取り出しながら、リラックスのための行為の本質を考えます。

リラックスの共通点

以下、リラックスのための行為を三つの類型に分けて分析します。

身体的な行為

まずは、上の例の1〜4番目に共通して当てはまる身体的に作用する行為に関して考えてみます。

以前の回の「沁みるとは何か」でも扱いましたが、身体感覚は、最も直接的な感覚であり、その感覚は直接的に、そして即座に意識を占有します。そして、意識上から他のものを追い出します。

たとえば、冷たさを感じているときには、冷たいという感覚が頭を占領し、他のことはそこから排除され、その感覚が和らぐと徐々に他のことが頭に浮かぶようになるという経験は身近なものでしょう。

また、サウナもわかりやすい例でしょう。サウナは、一度高温状態に身を置き、それを急激に冷やすという、身体的に非常に強い刺激を与えます。この強い刺激は、意識を完全に占領し、あらゆる他のもの、たとえば、考えごとや悩みを追い出します。サウナにおける「整う」とは、まさにこういった事態を示しているでしょう。

こうした身体的な刺激を感じている状態は、意識がその刺激によって占領されている状態であり、それはつまり、自分がその感覚とズレなく一致している状態といえるでしょう。つまり、感覚が私を占有し、私の意識がその感覚によって締め出されているといってもいいかもしれません。

実際、「整っている」ときに、「私は整った状態にある」とは考えないでしょう。「整っている」ときには、「私」については何も考えず、ただ「整っている」という感覚に満たされているだけです。その点では、その瞬間に、私は「整う」ことによって消滅しているといえるかもしれません。

このように、意識を身体的な感覚が占有することが、身体に作用する行為に共通しているといえるでしょう。

集中する行為

次に、上記の例でいえば、音楽を聴くや読書をするといった行為をみていきましょう。これらの行為は、集中する行為でしょう。同じように、マインドフルネス、ヨガ、写経、塗り絵など、没入感の高い行為も、集中する行為であるといえるでしょう。それらは、なぜリラックスできるのでしょうか。

集中するとは、なにか一つのことのみを行うことです。つまり、それ以外のことを頭の中から排除するということになります。この集中状態では、その集中が深まるほどに、自分と行っている行為との間の距離が縮まっていきます。そして、最終的には、その距離はゼロになり、自分とその行為が同化するかのようになります。この深い集中状態は、一般的には、没入とか、ゾーン、フローといわれているものでしょう。

そのように深く集中している状態では、頭の中を占めているのは、その行為のみであり、それを自分が意図しなくとも、自然に行っているような状態になります。ということは、そのような集中時には、自分が自ら意志をもって、何かをしようとは考えておらず、勝手に行っているということになります。それは、すなわち、自己意識が消えている状態といえるでしょう。まさに、文字通り「没我」の状態であるのです。また、ふとした瞬間にその集中が途切れることを「我に返る」という表現は言い得て妙でしょう。

このように、何か一つのことで意識を満たし、自らの意志でそれをやっているという自己意識すらも消失することが、この集中する行為に共通することといえます。

隔離された行為

最後に、上記の例でいえば、風呂に入る、映画を見る、キャンプをするといった行為をみていきます。これらに共通する点は、空間的に隔離されているということでしょう。

その隔離された空間では、他の空間との連続性が断たれ、その空間に閉じられます。そこには、その空間がもつ独自の意味の領域のみが存在します。たとえば、映画館であれば、その空間は、映画を観ることのみを目的とし、その目的を達成するためにチューニングされています。つまり、その空間は、映画を観ること以外の意味をもたない空間であり、そこへ行けば、その空間に閉鎖されることになります。

この独自の意味をもった空間に閉ざされることによって、それまでもっていた意味を放棄することができます。風呂に入っている間は、仕事のことは忘れられるし、映画を見ながら明日のことは考えないでしょう。

こうした、独自の意味へ閉じることは、一旦日常を忘れることができます。つまり、一時的な現実の忘却であるともいえるでしょう。そしてその現実とは、自分が自分であるという現実であり、その点では自己忘却ともいえるでしょう。

このように、固有の意味に閉鎖され、連続的な現実が忘却されることが、この隔離された行為に共通することといえます。

共通点の共通点

以上、リラックス行為を、身体的な行為、集中する行為、隔離された行為として、類型化しましたが、これらの類型にも共通点があることがわかります。

それは、意識から日常の連続性・複雑性を排除し、何か別の単一の対象で意識を満たすということです。そして、その単一の対象とは、なんらかの強く自分の精神を捉え、占領するようなものであり、その対象は、それを認識・思考・行為している主体である自分自身への意識、すなわち自己意識をも消滅させてしまうようなものであるといえます。

まとめ

以上で、リラックスするための行為と、その共通点を考え、それらを、身体、集中、隔離というように分類しました。そして、それらに共通する単一の対象への没我を見出しました。

次回は、なぜこうした没我によってリラックスできるのか、そして、リラックスの意味である、緩めるや和らげるとは、そもそも何を緩め和らげるのかといったこと、つまり、リラックスが必要となる原因について、考えます。