「厨二病」という言葉がある。言葉の意味は、ざっくり言えば、中学2年生ごろ、すなわち思春期ごろの独特な心理的状態で、自分は特別な存在であると過度に思ってしまうこと、そしてそれを周りを顧みずに表現してしまうことだ。それをコメディ的に誇張すれば、右手が疼いたりするわけである。
この厨二病という言葉は、様々な「症例」に対して使われるため、使い方も意味も多様になっている。
そこで、今回は、厨二病の顕著な特性である「否定」を取り上げ、なぜ厨二病が「否定」をするのかを分析し、厨二病の根幹について考えてみる。
厨二病が嫌うもの
厨二病の顕著な特徴は、何かを否定することである。厨二病は、何を否定するのかをまず見てみる。
大衆性・ミーハー
厨二病は、大衆的であること、すなわちミーハーを嫌う。たとえば、流行の曲や服をそのまま受け入れることはないだろう。むしろ、そういったものを毛嫌いする傾向にある。
この原因は、特別な自分であるためには、他の大勢とは違う自分でなければならず、それゆえ、大衆性を嫌うと考えることができる。この場合は、単に他人と違っていたいから、大衆性を嫌っていることになる。
この他人と違いたいという理由で大衆性を嫌うことは、まだ「ライト」な厨二病だろう。
より本質的には、あるいはより拗らせた厨二病は、他人と違う自分でありたいという欲求そのものを「ダサい」と考え、否定する。なぜなら、自分を他人の否定として確立するということは、流行に流されることよりもむしろ、他人の影響を受けているといえるからだ。
したがって、大衆性を否定する本質的な原因は、
1、それが表面的な流行である
2、自分とは関係がない
からである。
浅い・薄っぺらい
厨二病は浅いことや薄っぺらいことを否定する。それが顕著なのは、いわゆる「にわかファン」への風当たりの強さだろう。その一つの原因は、上記のように、周りに流されることを否定するからである。
もう一つの原因としては、にわかファンは、自分が本当にそれが好きでファンになったのではなく、別の目的でファンであるようにみせかけていることが多いからである。
たとえば、何らかのファンであると言うことで、それをネタに他の人と話すことができるとか、ファンであることで、周りから好意的に思われたいとかそういった思惑がある場合があるのである。
そのため、浅い・薄っぺらいことを否定する原因は、
1、周りに流されている
2、自分自身がそれを好きなわけではない
からである。
群れること
厨二病は、群れることを嫌う。その理由は、人と一緒でないと不安であり、自分一人で行動や選択ができないと考えるからである。
これは、上記したように、
1、周りに流されている
2、主体性がない
ということになる。
厨二病は非本質を嫌う
上記した、大衆性・浅さ・群れることには、共通点がある。それは、非本質性である。
非本質性とは
非本質性とは何か。
たとえば、流行とは、一過性のものである。そして、その流行を生み出しているのは、他人の思惑や価値観である。つまり、自分とは関係がない。
にわかファンは、本当に自分の興味からそれを好きになったわけではなく、それを深く探究しようとはしない。つまり、自分とって根本的に重要で、それが自分を作り上げるといえるようなものではない。
群れることは、他人の行動に合わせることであり、その他人の行動は自分とは関係がない。
このように、一時的で、非自発的で、自分の根幹にならないようなものを非本質性であると考えることができる。
本質性の追求
そして、本質性は、このような非本質性の否定によって成立する概念である。つまり、非本質性が本質性に先立つといえる。
なぜなら、厨二病は、世の中に存在する多くを非本質的であると否定するところから始まり、その否定の先に求められるのが本質性だからである。
本質性とは、非本質性の反対であり、自分自身が主体的に継続的に求め、それが自分の一部として確立されるようなもののことである。
厨二病の問題点
厨二病の問題点
こうした本質性を求めることは、自我の確立にとって重要なことである。自我の確立とは、自分とは何かを形成することであり、そのためには、自分という存在を、他のものと区別しながら、確保しなければならない。よって、自分にとって本質的でない非本質性を否定することには意味がある。
しかし、本質性にこだわるあまり、非本質性の否定が行きすぎてしまい、問題が生じることがある。
非本質性の重要さ
自分にとって本質的に重要ではないことであっても、それが全く無意味であるわけではない。
実際の日常においても、非本質的なものは、重要度は低いかもしれないが、日常の一部であり、人生の一部である。
劇において、本筋ではない場面がその劇に立体感を与えるように、非本質的であっても日常の一コマは意味をもつのである。
原理主義の危険性
本質性にのみ意味を見出すことは、原理主義的な思考に傾くことになる。
原理主義的な思考は、ある存在のみに意味を見出し、それ以外を否定する思考である。この思考は、すべてのものを、その存在に照らし合わせ、意味があるかないかを判断する。
つまり、その基準に基づいてのみ世界を認識し、解釈するということになる。となると、世界を単一の基準でのみ捉え、そこに他の基準を認めないことになる。これは、自分の主観を拡大させることによって、そのまま世界を捉えることである。
しかし、世界には自分とは異なる基準をもった他者が存在する。原理主義は、そういった人たちが、それぞれ異なる主観をもち、基準をもつという認識を消し去ってしまうのである。
厨二病の乗り越え
では、こうした厨二病をどのようにして乗り越えるのか。
それは、まず厨二病によって自己を確立し、非本質的なことにも価値を見出せる余裕をもてるようになることが必要だろう。
何かを否定することで何かを肯定することは、それを肯定することへの自信のなさからきているだろう。ある程度揺らがない自己を確立することで、自然と本質性のみを求めるのではなく、その他のことにも意味があるということを見出せるようになると思われる。