最近、芸人のチョコレートプラネット・松尾駿が、「素人はSNSをやるな」と発言し、炎上した。[1]
発言の真意はともかく、この発言をだけを切り取ると、あたかも芸能人が一般人を見下しているかのようにとれる発言だろう。
しかし、そもそも、今回の件に限らず、過去、多くの芸人が、「素人」を見下したような発言をしており、この一件だけが特別なわけではない。
では、そもそも、なぜ芸人は「素人」を見下すのか?について、考える。
特別でありたいという一般的な欲求
まず、議論の前提を論じる。
人は誰しも、自分が特別でありたいと願う生き物だ。
「特別である」とは、人と違うこと、そして、人より優れている、ということである。
そのように自分を特別にするものは、才能やスキル、あるいは、血液型、肌の色合い、骨格など、優れているかどうかは関係なさそうな特徴までも、特別性として捉えられ、アイデンティティとされることがある。
つまり、それほどまでに、人は自分が特別であることを望む。そして、人と違い優れているということをアイデンティティにするのである。
芸人が素人を見下す理由
面白さが測定困難である
芸人の本分であり、人と違って優れている点は、「面白いこと」である。
だが、面白いということを測定することは難しい。
たとえば、プロスポーツ選手であれば、各種のスタッツや成績によって、その選手が人よりも優れていることが明確に表れる。ゆえに、彼らは一般人に対して、自分たちの方が優れていることをわざわざ主張する必要がない。
一方、芸人の場合、明確に自分たちの方が面白いということを主張することは難しい。一般人にも面白いとされる人はいるし、そういった人と芸人を明確に比較する尺度がないからである。
つまり、芸人は、「面白い」という基準によっては、「人と違うこと」、「人より優れていること」という自分のアイデンティティを確立しにくいということになる。
では、芸人が他の人と明確に違うことは何か。それは、彼らが「芸能人である」ということだ。これは、明確な尺度であり、一般人にはない特性である。ゆえに、アイデンティティとして機能しやすいといえる。
このような原因から、芸人は、自分が「面白い」ことではなく、自らが「芸人・芸能人である」というステータスをアイデンティティとしがちである、と考えられる。
実力とステータス
「面白い」という実力ではなく、「〇〇である」というステータスをアイデンティティにする場合、向上心ではなく、見下すような心理を形成しやすい。
仮に、サッカー選手が、「自分はサッカーが上手い」ということをアイデンティティとした場合、その選手が世界最高の選手でもない限り、自分より上手い選手が存在することになる。
そして、「サッカーが上手い」ということをアイデンティティとしているのに、自分より上手い選手がいるのであれば、その選手は、自分のアイデンティティを十分に確立していないことになる。そのため、自分を確立するためにも、より上手くなろうとし、向上心をもつことになる。
このように、実力をアイデンティティにすると、自分より実力が上の存在によって、常にアイデンティティが揺るがされ続けるため、アイデンティティを確立するためには、能力を向上せざるを得ないのである。
一方、自分が「サッカー選手である」というステータスをアイデンティティにする場合、サッカー選手である自分はすでに肯定されており、上を見る必要はない。むしろ、サッカー選手か否かという、自分の能力よりも下のボーダーラインを見ることになり、サッカー選手でない人に対して優越感をもつようになるだろう。
人を見下す理由
つまり、人は、実力をアイデンティティとすれば、上を見て向上心をもつが、ステータスをアイデンティティとすれば、下を見て優越感に浸り、差別的になるのである。
以上のことから、芸人の一般人に対する見下しは、ある意味、論理的な帰結ともいえる。
芸人に限らず、何らかのステータスを誇り、アイデンティティとする場合も、同様の見下しが発生する。たとえば、年収がいくら以上だとか、どこに住んでいるとかである。こうしたことを誇る人たちが、皆、人を見下しがちなのもこういった理由によるのである。
まとめ
人を見下し、優越感に浸ることを悪だというつもりはない。人間には、そういう側面がある。
だが、それをやるなら、見下している相手に悟られないようにはするべきだろう。でないと、その相手から反撃を受けることになる。
また、実力を誇るか、ステータスを誇るかは、個人の選択の自由だが、個人的には、下を見下すより上を見て向上心をもつほうがかっこいいとは思う。
注釈
[1]https://news.yahoo.co.jp/articles/687b6436d7693d8d92b46ac3aac3285761469be3