エモいとは何なのか—若さとエモさの関係—

  • 2025年6月18日
  • 2025年6月19日
  • 批評

この記事では、最近、若者によく使われる「エモい」という言葉について考える。

結論としては、エモいとは、自傷的な感傷であり、安全圏での臨死体験である。そのため、エモいという感情は、若者の特権的な感情ともいえる。

以下、エモいについて論じる。

 

エモいとは何か

まず、エモいとされているものの具体例を挙げる。

もうパターン化された“エモ”気持ち悪すぎるんだよ、純喫茶でクリームソーダ、フィルムカメラで街を撮る、薄暗い夜明け、自堕落な生活、アルコール、古着屋、名画座、ミニシアター、硬いプリン、もう全部飽きた 面白くない

Xのポストより リンク

これは、2023年1月にXにポストされた投稿である。この投稿では、エモいとされているものが列挙され、そのパターン化が批判されている。

ここでは、批判内容ではなく、挙げられているエモいものを参考にする。

これらを分類するならば、古いものと、退廃的なものに分けられる。

 

古いもの:クリームソーダ、フィルムカメラ、古着、名画座、硬いプリン
退廃的なもの:夜明け(夜更かし)、自堕落、アルコール

 

このほかにもエモいものとしてあげられるものがあるだろうが、この二つのどちらかに分類できるだろう。

たとえば、タバコを吸うこともエモとして描かれることがあるが、これは退廃的である。レコードなどの昔の音楽は古いものである。

 

エモさの本質

このように、エモは、古いものや退廃的なものによって引き起こされる感情であるとわかったが、それはなぜなのか。

エモとノスタルジーの違い

まず、古いものが引き起こす感情から考えていく。

古いものに対する感情として、ノスタルジーがある。これは、郷愁や懐古ともいえるだろう。この感情は、昔を懐かしみ、取り戻すことのできない失った日々に対して、感傷的に過去の幸せを振り返る感情だろう。つまり、そこには、失われたものに対する痛みがある。それは、痛みを伴う切迫した感情なのである。

それに対して、エモには、ノスタルジーほどの痛切さはない。なぜなら、それを感じる人間の背景が違うからである。

エモを感じる人間は、その古いものを自分自身の体験において失っていない。つまり、エモを感じる人間は、古いものが、実際にかつて存在し、その現実が失われたという体験をしていないのだ。

では、何に対してエモを感じているのか。それは、古いものがかつて存在し、それが失われたものであるという事実に対して、エモを感じているのである。

つまり、古いものをエモいと感じるのは、自分自身は何かを失うことなく、失われたものに対して感傷を覚えることによってである。これは、いわば、安全圏からの優越的な感傷といえるだろう。

そして、自らは失う経験がなく、失われたものに感傷を覚えることができるのは若者であり、エモとは、若者の特権的な感情であるともいえる。

安全圏での自傷

次に、なぜ退廃的なものがエモいのかを考える。

アルコール、タバコ、夜ふかしなどは、健康に良くない。継続すれば体を蝕む。つまり、このような退廃的な行為とは、継続不能な行為であり、刹那的な行為である。

では、なぜこのような行為を行うか。それは、日常の継続的な世界への抵抗であると考えられる。

日常とは継続的である。このような継続性は、日常がずっと続くものであると人に思わせる。だからこそ、人は日常世界を安定して生活できる。

しかし、この継続性は同時に、変わらない日常となり、人を閉じ込める檻にもなる。日々の退屈、鬱屈、閉塞感といった感覚は、日常がどこまでも続き、変化しないことによる圧迫感から来ると考えられる。

こうした日常の継続性に対する抵抗として、退廃的な行為がある。退廃的な行為は、日常の継続性を停止し、刹那性を作ることができる。つまり、退廃的な行為とは、日常の停止、すなわち時間の停止であると考えられる。そして、それは継続性の否定であり、この先の時間の否定である以上、仮想的な死の導入といえるのである。

アルコールを飲んで泥酔すること。夜明けまで起きること。タバコを吸うこと。これらは皆、後先を考えていない。それをした後のことを考えるのであれば、そんなことはしないだろう。つまり、こうした退廃的な行為は、この後を生きることの放棄を意志しており、ある種の自殺行為であるとみなせる。

 

上記のように、確かに、このような時間の継続性への抵抗としての退廃的行為は自殺的な行為である。だが、それがエモい行為として捉えられるとき、そこには俯瞰的な視点が含まれており、真に継続性を憎悪するような真剣味は薄いと思われる。

古いものに対するエモと同じように、そこには、俯瞰的・メタ的な視点が存在している。つまり、退廃的な行為は、実際には、日常の継続性を停止させることはなく、また日常に引き戻されるということをあらかじめ了解しているのである。

そしてそれは、本心からの抵抗ではなく、日常の永遠的な継続性を前提とした上で、その継続性を確認するための抵抗であるとさえいえる。いわば、「こんなにも退廃的なことをしても、自分の日常の継続性は損なわれないのだ」という確認である。

そして、これもまた、若さを前提としている。たとえ、健康を損ねても、また元に戻ることができる若さがある。これを知っていて、あえて健康を棄損しようとしている。いわば、若さに守られた安全圏からの自傷行為なのだ。

 

まとめ

総じて、エモさという感情は、若さという安全圏に守られつつ、失われたものや退廃的な行為を通して、有限性の切なさを感じるものであるといえるだろう。

その切なさとは、何かが失われることや、日常の継続性を損なうことを通じて、死を仮想的に体験することであり、その死への感傷であるといえる。

このように、エモさに感傷的な痛みがあるのは確かだが、それが「エモい」として表現される以上、そこにはおしゃれさやムードが同時に存在するのであり、痛みからは距離がある。つまり、一人称的に、自分自身の身が切られるような痛みはそこには存在しない。

その理由は、エモさを感じる主体が、その若さゆえに、身に迫る死の実感からは守られているからだ。そして、自分が死から遠いことをその主体は知っている。いわば、ジェットコースターのように安全であると分かっていながらスリルを楽しむような感情であり、安全圏での臨死体験といえるだろう。

つまり、エモいという感情は、失われることへの感傷に痛みを覚えつつも、同時に自分には若さという時間的な猶予があることによる優越感が含まれているというべきだろう。

エモいとは、そういった意味で、仄暗い背徳的な感情でもあるのである。