IQや偏差値という概念がある。これは、人の頭の良さを測るとされる。あるいは、そうみなされている。
だが、それは本当なのか、それらの数字に意味があるか、考える。
IQや偏差値の通念
IQと偏差値(ここでは受験におけるもの)は全く違うものではあるが、世の中の認識としては、どちらも頭の良さを表す数値のようなものとしてみなされている。
それらの数値には、高低があり、高ければ良い、低ければ悪いと考えられている。
つまり、その数値が、頭の良し悪しの尺度であり、そして、「頭が良いことが価値のあることだ」とされている以上、その数値は、人の価値の尺度として使われているともいえる。
通念への反論
しかし、そもそも、こうしたIQや偏差値といった数値で、「頭の良さ」や「人の価値」を判断することはできない。その理由を論じる。
脳は多機能である
まず第一に、脳はさまざまな機能をもっており、IQや偏差値で測れるのが、そのなかのごく一部であることが挙げられる。
たとえば、IQや偏差値とは遠いイメージのある運動機能についても、脳が司る機能の一部だ。人と上手く付き合うことも脳の機能だし、言語化しにくい芸術的なセンスもそうである。
頭がいいという概念の誤り
となると、そもそも、「頭の良さ」という概念は成立し得ない。なぜなら、人間のあらゆる能力に、少なからず頭=脳は関わっており、それら全てに頭の良し悪しを結びつけることは、現実的ではないからだ。
たとえば、免疫が強く風邪をひかない人に対しても、「頭がいい」と言わなければならなくなり、そうなると、「頭がいい」という概念が、あらゆる長所に使われることになってしまう。
つまり、「頭の良さ」と一般的に言われているものは、頭=脳のごく一部の良さにすぎないのである。
能力のトレードオフ
第二に、ある一つの能力は、他の能力とトレードオフになりうるということが挙げられる。
例えば、極めて論理的な人間は、大抵、感情的なものを理解できない。なぜなら、ものを理解する方法として、論理的な理解と感情的な理解が相反するからである。つまり、どちらかの方法を使えば、もう一方の方法は使えないということになる。
「頭がいい」=他の機能が悪い
したがって、IQや偏差値の高い、いわゆる「頭がいい」場合、脳のその機能が優位に発現されているということであり、それと同時に発現することのできない機能は、発現の機会がなく、劣っているということになるだろう。
例えば、スポーツの技の習得の際に、感覚的に習得する人はそれを言語化できない場合が多いし、言語化して覚えようとする人は「パッと」見て習得することができないことが多い。
つまり、「頭の良さ」は、「頭の悪さ」でもあるのだ。
まとめ
IQや偏差値で測れる能力は、脳の一つの能力にすぎない=全体を語れない。
ある能力が高いということは、他の能力が必然的に発現されにくい→「(ある分野で)頭がいい」=「(他の分野で)頭が悪い」
主張
1、IQや偏差値は色みたいなもの
IQや偏差値が、価値のある/なし、善/悪という上下・高低のある概念であると考えられがちだが、そうではなく、「色」のような概念と考えたほうがいいだろう。
たとえば、より青いことが、より良いわけではない。それは、数ある色のなかで、より青であるというだけである。同時に、より青であるということは、より赤ではないということにもなる。
このように、色と類比して考えた方が、IQや偏差値を正確に捉えられるだろう。
2、尺度を上下で考えることをやめる
これは、IQや偏差値に限らず、すべての尺度についていえることだ。
とかく、あらゆるものを価値の上下・高低で考えがちである。ランキングが人気なのもそのせいだろう。こういった序列づけのような志向は、人間の本能なのかもしれないが、全てをそのように考えるのはやめた方がいいだろう。
それよりは、色を表す方法のように、赤がいくら、青がいくらのようなパラメータで考えるといい気がする。この考え方だと、より全体を意識できるし、何かに秀でていることが、何かに劣っていることだということが意識できる。
まとめ
以上論じてきたとはいえ、確かに、IQや偏差値は、従来、社会的に有用とされてきた能力の尺度に近いと言えるかもしれない。
だが、それは、今までの社会が、画一的な人間の能力しか求めなかったからだ、とも言えるだろう。
いつの時代にも、測定不能な能力は無限にある。それが有用だと評価できるかは、どれだけ多くのものに価値を見出せるかという、人々の心の豊かさという一種の「頭の良さ」によるだろう。