この記事では、まともではない左派に典型的なダブルスタンダードを許容する精神構造について分析する。
なお、この記事では、昨今問題になっている、まともではない=非理性的な左派について扱う。思想としての左派とは別である。
極左傾化する原因とは
まず、そもそもなぜ非理性的な主張をする左派になるのかについて分析する。
怒りの感情
極端な左派、たとえば、極端なフェミニズムやビーガン、環境活動家などをみてみると、彼らの活動が、理性的なものではなく、個人的な感情に基づいているのではないかと感じられる。
そして、感情の中でも特に、怒りや恨みの感情が顕著であるように思われる。
たとえば、極端なフェミニズムが男性を侮辱したり、ビーガンが肉を食べる人を罵ったり、環境活動家のアイコン的存在が怒りに満ちていたりする。
彼らはなぜそんなに怒るのか。そもそも、人はどんなときに、怒るのか。
それは、自分が何か嫌な目にあったり、何かの被害にあったときだろう。人はそういった目にあったときに、怒りを覚える。
たとえば、誰かに嫌がらせをされたとしよう。嫌がらせをされれば、当然、人は怒る。怒ると何をするか。その嫌がらせをした人物に仕返しをするかもしれない。あるいは、より道徳心がある人ならば、嫌がらせをしてきた人について、しかるべき場所に訴えるかもしれない。
いずれにせよ、嫌がらせをした人に対し、何らかの対抗措置をとり、それで満足する。そして、その相手に対し嫌なイメージは残るだろうが、怒り自体は次第に消えるだろう。
つまり、人は、怒りを覚えれば、それに対応する対抗措置をとることで、怒りを鎮めるのである。
無力さと恨み
しかし、この対抗措置がとれないときもある。あるいは、対抗措置をとっても、怒りが消えないこともある。
その原因は、無力さにある。
最も原始的で、わかりやすい例は、力の強い者による暴力による被害だろう。相手の力が自分を上回っている以上、対抗措置としてやり返すことはできない。社会的な圧力も、これと同じである。社会的に立場が上の者に対して、下の者はやり返すことが困難だ。そういったときのために、警察を含めた様々な取り締まり機関があるのだが、これが常に機能するとは限らない。
したがって、対抗措置が取れず、解消されない恨みは、自らが加害者に対して、何もできないという無力さから生じるのである。
そして、このような解消できない怒りは恨みに変わる。つまり、恨みとは、対抗措置の不在によって、解消されなかった、持続的な怒りであるといえるだろう。
誰しもこうした恨みを抱くことはある。子供の頃、相手が悪いのに、喧嘩両成敗にされたことを恨んだ経験がない人は少ないだろう。多かれ少なかれ、こういった理不尽さを、人は経験している。
そして、そういったどうにもならない恨みに対して、人は色々な対処をする。憂さ晴らしをして忘れようとするかもしれないし、時が経ち忘れるのを待つかもしれない。あるいは、次にそういった目に遭わないように教訓とし、自己の成長を促すかもしれない。こういった対処は、精神的には比較的健全といえる。
問題なのは、こうした解消できなかった怒りを、恨みとしてもち続け、その恨みによって精神を構築し、怒りの眼差しで世界を見るようになることである。つまり、世の中に対して、常に被害者的な怒りを保ち続けるようになることである。
善・正義・公平の私物化
たしかに、恨みをもつようになったきっかけは、理不尽な出来事であり、それに対して、無力であった自分は悪くはないし、助けの手が差し伸べられるべきではあった。その点でいえば、彼らは被害者である。
そして、憂さ晴らしによって忘れることのできない恨みというものも実在する。それを否定するつもりはない。
だが、彼らは、恨みの感情をもとに、世の中に、善や正義、公平さを振りかざすようになる。その根本的な動機は、自らが被害にあったときに、他の誰かによって救済されなかったことにあるだろう。
つまり、彼らは、自分が何かの被害に遭い、それに対する対抗措置を取れなかったことで恨みを抱き、自分を救わなかった世の中全体を恨み怒るようになる。そして、世の中を不正だと糾弾し、善や正義を振りかざすようになる。
そういった個人的な恨みに基づいた社会運動の結果、成果を上げたものもあるだろう。だが、それは結果論である。
最も重大な問題は、彼らが自分の感じる恨み・被害者意識という感情に基づいて、世の中を糾弾していることであり、そうである以上、そこで持ち出される善や正義は、彼らの恨みを晴らすための道具にすぎないということである。
つまり、彼らは、自分の恨みを晴らせるような、自分にとって都合の良い世界を、善や正義の名の下に実現しようとしているのである。これこそまさに、偽りの善、偽善である。
そして、これは、現実を見ずに、善や正義という言葉を用いつつ、実際は個人的な感情に基づく自己満足にすぎない言動をし、人々に迷惑をかける極端な左派と一致する。
なぜ極左派はダブルスタンダードになるか
メタ認知不能
これは、怒りを感じたときを思い出せば理解できる。怒りの感情は、燃え上がるように広がり、その対象へと向かっていく。その結果、突発的な行動をさせうる。たとえば、怒鳴ったり、殴ったりさせる。怒りは、冷静さを奪い、普段なら絶対にしないことをさせてしまう。
つまり、怒りは、自分はそれをするべきなのか、今しようとしていることは正しいのかといった、メタ的な認知を奪うのである。
恨みに取り憑かれた人は、程度の違いはあるかもしれないが、常にそういった怒りの状態にあるといえる。つまり、そういった人は、メタ認知[1]ができない状態にあるのだ。
被害者意識の増大
怒りが対象への憤りの感情で、精神を支配してしまうように、恨みの感情も、その人の精神を被害者意識によって支配してしまう。
それが膨れ上がると、自分自身を被害者として自己認識し、被害者としての自分として振る舞い始める。些細なことに対しても、差別や攻撃だと捉えるようになる。
その結果、被害意識と、他者に対する攻撃性が増大することになる。
加害に対する無関心
こうして、メタ認知を失い、被害意識が精神を支配するようになると、自分自身の言動が、他人に被害を及ぼしているのではないかという想像力が欠如する。
その結果として、自分が被害を受けることには敏感だが、加害に対しては鈍感な精神が生まれるのである。
こういった精神が行う善や正義を主張は、それによって自分が被害を受けないようにし、同時に加害者を社会的に否定するための道具にすぎない。よって、それが、自分に対して適用されることを想定できない。
それは、そもそも、そういった主張が自分を利する道具であるため、当然のことなのである。
こうして、言っていることと、やっていることが正反対のダブルスタンダードの人間が誕生するのである。