Abema Prime(アベプラ)などのネットの政治・社会系討論番組が人気である。
こういった討論番組がなぜ人気なのか。
その本質的な理由は、感情の対立を楽しむショー的な要素があるからなのではないか。
もしそうだとしたら、そのショーは、社会のどういったことを反映しているのか、あるいは、社会にどういった影響を与えるのか、について考える。
討論番組の良い点
まず、討論番組について良い点を挙げておく。
それは、気軽に議論・討論にアクセスできるところだ。
動画を見るだけで、さまざまな政治的・社会的な意見をもった人の発言に触れることができる。また、その動画について、コメント欄で、自分の意見を言えるし、他の人の意見にも触れられる。
こういった気軽さが良い点である。政治の話題というと、身構えたり、タブー視されたりする傾向があるが、こうした気軽な討論番組の存在によって、人々の意識が変わるかもしれない。
そうすれば、社会的な政治への関心が高まる可能性はあるだろう。
討論番組の懸念点
だが、同時にこうした番組には、懸念点もある。
議論が感情的なショーとなっている
こういった討論番組は、大抵の場合、議論が感情的になる。
詳しく言うと、討論に参加する人が、言葉に積極的に感情を乗せている。そして、対立する意見の人は、その意見の内容と対立するというよりも、むしろ、感情的に対立しているようにみえる。
その結果、番組全体が、政治・社会テーマをダシに使った感情のぶつけ合いと化している、ように見える。少なくとも、討論・議論のマナーとして、なるべく感情は抑え、論理によって主張するべきだという原則は、守られていない場合が多い。
そして、視聴者も、討論を見ているというよりも、自分の気に入らない意見の人が言い負かされるのを楽しんだり、出演者同士が感情的に対立することを楽しんだりする、まさにショーとなっているように思える。
感情的な民意を作り出す
感情は伝染する。
こうした感情論的な議論は、それを見た人々に、感情的に影響を与える。そして、感情的に意見を形成させうる。それが社会規模で生じ、みんなが自分の感情的にどちらの意見が良いのかを選択するようになれば、それは危険なことだろう。
また、感情は、増幅される。
誰かの怒りの感情が、他人の感情を増幅し、極端な意見へ傾かせることもあるだろう。
もっとも、そもそも感情と結びつかない政治・社会的意見などないだろうが、それでも社会的な意見形成において、感情の果たす役割は抑制されるべきだろう。
なぜ討論番組が人気なのか
そもそも、なぜ討論番組が人気なのか。それも、感情的対立のある番組が人気なのはなぜか。
その要因は、
①政治・社会への不満の蓄積
②迷惑な他人への怒り
の二つだろう。
①政治・社会への不満の蓄積
これは言うまでもないことだ。
物価上昇で生活が圧迫されているなかで、政府は有効な政策を実行するどころか、国民の怒りを買うような政策を推し進めている。
選挙のたびに与党は票を減らしており、国民の不満が表れているといえるだろう。
②迷惑な他人への怒り
政治・社会に対する不満や怒りと同時に、現代は、「迷惑な他人」に対する怒りが渦巻いている。
数々のハラスメント、行きすぎたハラスメント対策、ポリコレ、老害、迷惑系、SNSの承認欲求……。公共の場での迷惑客や、いわゆるロードレイジと呼ばれる運転手同士の道路上でのトラブルなど。
こういった数々の「迷惑な他人」が特にSNSの普及によってネット上に晒されるようになり、それらが閲覧数を稼げるがゆえに量産される。
結果として、特に自分が何かの被害を受けたのではないのに、他人への不信や怒りが、潜在的に醸成されているように思える。そして、その怒りを、同じようなコンテンツがさらに増幅させるという構造がある。
怒れる社会
まとめると、人々は怒りを覚えやすく、またそれが増幅されやすい現状があるといえる。そして、その怒りを解消させる捌け口、あるいは怒りを増幅させる装置として、感情的な対立がコンテンツ化された。その一例が、ネット討論番組が人気なのだと考えられる。
まとめ
以上述べたような、怒りの発生とその増幅のサイクルは、ここ数年変わっていないように思える。どころか、激化してきているとすら思える。
となると、社会は、一時的に怒りのエネルギーをもっており、それが討論番組などによって憂さ晴らしされているのではなく、今後も社会的に怒りが高まっていき、討論番組よりも直接的な怒りを発散させるコンテンツが人気になっていくのかもしれない。