明らかにするべきことなのに、他者の目を気にしてできない行動、あるいは、ハードルが高い行動がある。
たとえば、電車で席を譲ることはその筆頭だろう。
他にも、自分のためにやるべきなのに、他者の目を気にして、勇気が出ないこともあるだろう。
だが、大体の場合、実際にその行動をしたとしても、何も起きない。
他者から何か言われることもない。
だから、やることは確実に善だし、やらない理由がないのだ。
それなのに、ハードルを感じる。
これに向き合い、克服するためにはどうすればいいだろうか。
損失を意識する
まずは、このハードルのせいで、自分がいかに制限されているのか、そして、このハードルを超えたらいかに自由になれるのかを考えるのはどうだろうか。
行動には、
・やりやすくて、できること
・やりにくくて、できること
・できないこと
がある。
自分が何か変えたいとか、幸せになりたいと思うとき、大抵問題になるのは、「やりにくくて、できること」のはずだ。
そもそも、できないことを望む人は少ないからだ。
であれば、「やりにくくて、できること」をしないことは、自分の人生を制限している。大袈裟に言えば、檻に閉じ込めているといってもいい。
こう考えれば、事の重大さを理解できる。
怒りによる自己中心性
次に、おそらく、数年前までのトレンドとして、「怒りによる自己中心性」とでも呼べるものがあった。
それは、スローガン的に世の中に溢れており、
・人の目を気にするな
・自分のやりたいことをやれ
・とやかく言ってくるやつは無視しろ
というようなメッセージを発していた。
当時のことを覚えていれば納得してもらえるだろうし、当時のCMとか歌とか、インフルエンサーの発言を振り返ると、よくわかるだろう。
おそらく、その流れの中の負の遺産が、迷惑系YouTuberだと考えられる。
これは、
・私が何をしようが、私の勝手だろ
・私には権利がある
というような他者や社会への怒りを利用したものであった。
確かに、怒りは、他者がどう思おうと、自分のやりたいことを強行するための力にはなる。
だが、まず、人格的には望ましくない。
そして、自分がやりたくて、やっていいことをやるのに、わざわざ他者に攻撃的になる必要はない。
本質的には、他者への怒りを自分の行動に利用している点で、他者への無意味な執着からは逃れられていない。
つまり、他者の目を気にする状態と、本質的にはあまり変わらないのだ。
しなやかな強さ
じゃあどうすればいいか。
とりあえず、きっかけとして、攻撃性を用いるのはアリだろう。
そして、ある程度自由を手に入れたら、自分の領域と他者の領域を区別できる能力を身につけるべきだろう。
これはつまり、自分の行動選択に他者を介入させないということであり、逆に言えば、他者の領分に介入的な関心を持たないということである。
多分、他者の領分に過剰な関心を持つ人、たとえば、芸能人のスキャンダルに関心を持つような人は、自他の健全な区別ができていないと考えられるから、これは表裏一体な問題といえるだろう。
結局は、本質に回帰する。
自分の人生は自分が責任を負う。だから、自分の行動も、自分で決める。この当たり前すぎる原則を、芯から理解することが、自他を健全に区別し、自分のやるべきことに集中できるための根本原則なのだろう。