【ネタバレ考察】雨穴著『変な絵』考察 米沢親子と優太が焼きそばを食べるラストシーンの意味とは

  • 2025年9月18日
  • 2025年9月18日
  • 作品評

雨穴著『変な絵』は、今野優太が、米沢美羽とその父親と一緒にバーベーキューをし、美羽の父が焼きそばを作るというシーンで終わる。

このシーンは一見、事件が終わった後の平和な一幕を描いているようにみえるが、いくつかの謎がある。

なぜ、作中であまり登場していない美羽と、初登場の美羽の父と一緒に、優太がバーベキューをしているシーンが最後に出てくるのか?そして、なぜ焼きそばを作るのか?

そこには、作者が込めた優太の将来についての暗示があると思われる。そのラストシーンの謎について、考察していく。

 

ラストシーンの謎

なぜ焼きそばなのか?

まず、なぜ美羽の父が焼きそばを作るのか?

このシーンではまず、米沢(=美羽の父 作中では米沢と表記)が優太に、肉をすすめる。その際に、

緊張しているのだろうか。米沢は、つとめて明るく尋ねる。

「優太くんは、どんな肉が好き?分厚いステーキも、柔らかくて薄いのも、骨付きのもあるぞ。好きなのを焼くから、食べたいものを言ってごらん」

(p.284)

米沢は、優太のことを非常に気遣っている。

だが、優太は実は、肉が嫌いなのである。そのことを優太は、恥ずかしいのか、遠慮しているのか、米沢に言うことができない。

そこで、美羽が、

「あのね、パパ。優太くん、あんまりお肉が好きじゃないの」

(p.285)

と優太の代わりに言ってあげる。そして、焼きそばが好きだと言うことも、父親に伝えるのである。

焼きそばに込められた優しさ

つまり、なぜ焼きそばを作るのかの直接的な原因は、「優太が肉が嫌いだから」ということになる。

だが、焼きそばを作ることになった経緯には、

・美羽が、優太が「肉が嫌いだ」と言えないでいることを察した

・美羽が、優太が焼きそばが好きであることを知っていた

・米沢が優太の好みを受け入れ、優太のためにわざわざ焼きそばを作ろうとした

こういった二人の優しさがあったのである。

焼きそばを作るくらい大したことじゃないと考えるかもしれないが、米沢は、肉を焼いていた「網を外して、炭火の上に鉄板をのせ」(p.285)たのである。

つまり、今まで肉を焼いていたのを中止して、優太一人のために、焼きそば作りに変更したのである。そして、美羽は、それを自ら提案し、「期待に満ちた目でそれを見つめている」(p.285)のだ。美羽は、父親に肉ばかり食べていて注意されるほど、肉が好きなのであるにもかかわらず、だ。(p.283)

そして、米沢は、

「よっしゃ!優太くん!美羽!待ってろよ!今から世界一うまい焼きそば、作ってやるからな!」

(p.285)

と言うのである。

なんという優しさと懐の広さだろうか。

また、注目するべきは、米沢が、名前を呼ぶ順番である。優太くんを先に呼んだのである。

米沢にとって、美羽は自分の娘であり、優太は血のつながりのない子供である。だが、優太の目の前で、自分の娘を、優太よりも優先するようなことはせず、優太をしっかりと気遣い、自分の娘と同様に大事な存在として捉えていることがわかるのである。

優太の将来の暗示

優太は、育ての母である直美と別れ、子育ての経験のない熊井に引き取られた。しかも、熊井は初老の男性である。まだ幼い優太をしっかり育てていけるのか、かなり不安である。

読者もまた、優太の将来を不安に思うだろう。

そんなところに、最後のシーンで、あまり登場していなかった米沢親子が登場し、優太と一緒にバーベキューをする。そして、優太の好きな焼きそばを作る。

このやりとりを見ることで、仮に熊井に不安なところがあっても、米沢と美羽が一緒ならば、優太の将来は大丈夫だと思えるのである。

 

武司との比較

さて、ラストシーンの謎については語り終えた。だが、バーベキューと肉嫌いといえば、触れないわけにはいかない存在がいる。それは、優太の父、武司である。

武司もまた、子供の頃、彼の父である義春に連れられ、バーベキューをした。そして、肉が嫌いだった。

だが、優太と決定的に違うのが、武司は無理矢理バーベキューに連れ出され、嫌いな肉を無理に食べさせられたことである。

これは、作者が明確に、武司と優太を比較していることを意味している。

では、明るい未来が暗示される優太に対して、武司はどのような人生を辿ったのか。

義春の教育

子供の頃の武司は、極度の引っ込み思案であった。母親の直美以外とのコミュニケーションを取ろうとせず、引きこもりがちであった。

そんな武司に対する教育方針で、直美と義春は対立する。義春は、武司に「外に出ろ」、「友達を作れ」と言い、従わないと武司を叩いた。

また、義春は、休みの日に武司を無理矢理キャンプに連れ出して、武司が嫌いな肉を食べさせた。

このような義春の教育・しつけは、武司に強いストレスを与えたであろうことは、想像できる。義春は、自分の思う「あるべき姿」を求めるあまり、子供のことを考えず、それを暴力を使って押し付けたのである。

直美の教育

直美はこのような義春の教育に反対し、「外に出たくないならでなくていい」、「無理に人と話さなくていい」、無理矢理させる方がトラウマになる、と言っていた。

そして、何度言っても暴力をやめない義春を殺した。それは武司を守るためだった、と直美は言う。

だが、何を言おうとも、武司の父親を殺したのは事実である。

その後、武司は直美のもとで成長し、社会人として働くようになった。武司は、無事に立派に育ったようにも思える。

しかし、武司が27歳のとき、直美に対してこのように言う。

「あの……お母さん。好きな人ができたんだけど、お付き合いしてもいいかな?」(p.253)

これに対して、

武司はいくつになってもお母さんの言うことをちゃんと守るいい子なのだ。直美は武司の頭をなでなでしながら答えた。

「もちろんいいよ。ただし、武ちゃんに似合う子かどうか、お母さんが確かめてあげるから、一度お家に連れてきなさいね」

直美はこのように武司に言う。27歳の息子に対して、母親がこのように接することは、さすがに異常であると言わざるを得ないだろう。

そして、直美は、「お母さんの言うことをちゃんと守るいい子」だと武司を思っている。これは、武司が直美の言うことに全く逆らわない、いわば言うがままであるということだろう。

このように、母親に絶対的に依存し、言うがままの子供を作り上げたのは、間違いなく直美だ。そして、直美はそれを問題だと思わないどころか、いいことだと思っている。

このような教育の結果、武司の妻である由紀は、直美の殺意に気づいていながら、それを武司に言うことができなかった。なぜなら、武司はおそらく由紀よりも母親を優先するからだ。事実、直美に宛てたブログのタイトルは、『一番愛する人へ』なのである。

そして、武司は妻の由紀を失い、さらに、自分の息子である優太を残して自殺してしまう。

この結末は、明らかに悲劇である。そして、その悲劇を作り上げたのは、武司の両親であり、その教育なのである。

義春と直美の教育の問題点

義春と直美の教育は、両極端すぎたのである。

両者共に、武司への愛はあった。

事実、義春は直美に殺されそうになったときに、直美が捕まって武司が一人にならないように、直美に疑いがいかないようにした。

直美は、歪んだ愛かもしれないが、「武司を守る」ために人殺しまでした。

だが、彼らは、子供のことを思い遣っていない。

義春は、武司の個性や自主性を無視した。武司の嫌がることを無理矢理やらせ、自分のもつ「あるべき姿」に従わせようとした。

直美は、そもそも父を殺しているので論外だが、あまりにも過保護に育てすぎた。おそらく、武司を溺愛し、何でも思い通りにさせたのだろう。その結果、武司は、成長の過程で得るべき能力を得ることができず、少なくとも精神的には、母親なしでは生きていけなくなった。

直美はそれを肯定し、武司をまるで自分の所有物かのようにしてしまった。

米沢との違い

米沢には、子供への愛がある。そして、子供への思いやり、気遣いがある。それと同時に、子供が大人以上に、人のことを考えており、感情の機微に聡いことを知っている。

米沢は最後のシーンでこのように独白する。

米沢は知っている。子供は大人以上に、悲しみや不安に敏感だ。そして、大人と同じように、それを周囲に悟られないよう、必死で隠そうとする。美羽も優太も、きっと笑顔の奥で、耐えている。だからこそ、米沢は二人に伝えたかった。人生には、つらいことと同じくらい楽しい出来事や、幸せな時間があることを。

(p.285)

このように、米沢は、きちんと子供の立場になって、子供を理解しようとしている。一方的にあるべき姿を押し付けるのでもなく、子供を自分の所有物にするのでもない。

その前の米沢と美羽のやりとりがある。

「美羽。肉ばっかりじゃなくて、野菜も食えよ」

「わかってまーす」

(p.283)

ここに、米沢と美羽の良好な関係が全て現れているように思える。

無理矢理親の言うことを聞かせるのでもなく、甘やかして好きにさせるのでもない。

このような親に育てられることで、子供は健全に成長できるのだ。

 

『変な絵』の哲学的なテーマ

こう考えると、この本には、子供の教育をめぐる哲学的なテーマがあるとも考えられる。

義春や直美の教育は、一見正反対に見える。だが、彼らは真に子供のことを考えてはいないという点では共通していた。自分の理想を子供に押し付け、子供を自分の思うままにしようとした。その結果、武司は悲劇的な最後を遂げてしまった。

あるべき教育とは、子供を劣った存在だとみなすのではなく、繊細で気を遣うような、ある意味大人以上に大人であることを理解すること。そして、辛い時には寄り添い、人生に「楽しい出来事」や「幸せな時間」があることを教えてあげることなのだ。

以上のように、作者の教育に対する考えを考察することもできるだろう。