映画『チェンソーマン レゼ篇』のプールと海の対比について

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』には、「プールのシーン」と「海のシーン」の二つの印象的なシーンがある。

この二つのシーンは、「プール」と「海」という対比が明確に意図されており、それぞれが象徴的な意味をもっていると考えられる。

そこで、今回は、この「プールのシーン」と「海のシーン」をそれぞれ分析し、その対比に込められた意味を考察していく。

この記事を読むことで、この映画・漫画のストーリーの素晴らしさに加え、舞台設定や演出のすごさを実感していただけたらと思う。

 

プールのシーンあらすじ

シーンの内容

このシーンは、デンジがレゼに誘われて、夜の学校に二人きりで忍び込み、学校のプールで二人で泳ぐシーンである。
デンジは、幼い頃から、デビルハンターをしてきたため、学校に行ったことがなく、また、泳ぎ方も習っていなかった。そこで、レゼは、
「教えてあげる!デンジ君の知らないこと、できないこと、私が全部教えてあげる」
そう言って、レゼはデンジに泳ぎを教える。というよりも、二人とも裸になって、夜のプールで二人で遊ぶ。

象徴

ここのシーンから抽出できる象徴は、以下の通りである。
  • プール

海のシーンあらすじ

シーンの内容

このシーンは、壮絶な戦闘の末にデンジがレゼにチェーンを巻きつけて海に落ちた後、翌朝、デンジがレゼを助け、波打ち際で話すシーンである。

このとき、レゼは、デンジのシャツを着ていて、それで膝上くらいまでを覆っている(いわゆる彼シャツ)。デンジは、長ズボンに、上半身裸という格好である。

レゼを蘇らせたデンジに、レゼは、「私がまだキミを本気で好きだと思ってるの?」と言い、今までデンジにしてきたのは、全て好きなふりだったと言う。そして、レゼは、ひとりで逃げようとする。

そこでデンジは、

「一緒に逃げねえ?」

と言う。デンジはあれだけ殺し合った後も、レゼのことが好きなのだ。そして、

「全部嘘だっつーけど 俺に泳ぎ方教えてくれたのはホントだろ?」

と言う。だが、レゼは、デンジの首をへし曲げ、一人で去っていく。

象徴

ここのシーンから抽出できる象徴は、以下の通りである。

  • 服を分け合っている

 

プールと海の対比された象徴

夜と朝

まず、プールのシーンと、海のシーンでは、時間帯が異なる。プールは夜。海は朝である。
この夜と朝には、対照的な意味がある。
まず、夜。
夜は闇の世界である。そして、二人の距離が縮まる時間でもある。つまり、より親密になる時間なのだ。そしてそれが、奔放さや、それに伴う背徳感にもつながる。夜遊び、パーティーナイト、深夜テンションなどは、こういった夜特有の浮ついた気分を表している。

また、夜といえば、である。夢は、現実を超えて、自分の望む世界を見ることができる。だが、それは所詮非現実であり、儚く消える仮初の世界でもある。

このように、敵対する組織に所属している二人が、その現実を忘れて、束の間ではあるが、一緒に裸で泳ぐシーンは、親密さや奔放さ、背徳感、そして、儚い夢といった夜の象徴性と重なりあう。

 

次に、朝。朝は、夜の正反対である。

朝は光の世界であり、秩序でもある。人々が起きてきて、日々の営みを始める。世界がまた昨日と同じように回り始める。そんな秩序と規則の始まりが朝なのである。

また、朝になると夢は醒め、現実に引き戻される。

本作の海のシーンでは、戦闘を終え、それでもレゼのことが好きなデンジが、一緒に逃げることを提案する。レゼは、それを断って、デンジのもとを去る。

これは、二人でいられた夜の時間が終わり、夢が醒め、二人が現実の元いた場所に戻っていくことである。これを夜明けの朝と重ね合わせることには象徴的な意味があると考えられるだろう。

裸と服

プールのシーンでは、デンジとレゼは裸であったのに対して、海のシーンではお互い半分服を着ている。

海のシーンでのレゼの服装は、デンジが自分のシャツをレゼに着させており、いわゆる「彼シャツ」の状態である。デンジは、シャツをレゼに着させているため、上半身が裸であり、ズボンを履いている。

この服装の対比について考える。

 

距離としての服

まず、服の有無は、一般に、二人を隔てる物理的な障害の有無である。象徴的には、どれだけ相手に心を許し、素を見せているかという心の距離を示す。

ただし、裸を性的な武器として使うときや、お互いが肉体のみの関係の場合、逆に裸であることが心の距離を意味することもありうる。

だが、二人は16歳前後で、少年と少女と言っていい。実際、映画のキャッチコピーには、「炸裂する少年と少女の夏」とある。

となると、二人は純粋に、プールで裸だったとき、肉体的にも精神的にも接近しており、ある意味一体となっていたのだろう。実際、二人ははしゃいでいて、楽しそうだったことからもわかる。

それが、海のシーンでは、半分ではあるが服を着ていることから、何も考えずに純粋に一緒にいられたプールでのシーンとは違う距離感であることが窺える。

この半分服を着ている状態を、象徴的に解釈するならば、服という物理的な壁を作りつつも、それを完全には作りきれていない、だから、本心が漏れてしまっている状態と読み取れる。

本作に照らし合わせると、レゼの心としては、「本当は一緒にいたい」。けれど、デンジを思えば、それを言うわけにはいかない。でも一緒にいたい、好きだという気持ちを隠しきれないという意味に読める。

 

性欲の有無

次に、服の有無は、性欲の有無を象徴しているとも考えられる。

まず、プールのシーンでのデンジは、性欲丸出しであった。そして、それはレゼについても言えることだろう。先に服を脱いで、デンジを誘惑したのは、レゼだからだ。

もっとも、レゼはデンジのように単なる性欲なのではなく、少女の無邪気さや、デンジに自分を好きにさせたい思いや、あるいは、ミッション的に相手を籠絡したいという思惑があったかもしれない。

これに対して、海のシーンでは、デンジはズボンを履いている。これは、もともと上下服を着ていて、シャツをレゼに着させたのだから、当然ではあるが、これを性欲の有無の象徴としても捉えられる。

ズボンを履いているということは、下半身を覆っているということで、デンジのここでのレゼに対する感情には、性欲が持ち込まれていないと考えることもできる。

実際、海のシーンでは、プールのシーンみたいに性欲が表面に出ていない。レゼが「彼シャツ」状態であり、さらに最後にキスできる距離まで接近したのにもかかわらずである。

このことから、デンジが、心からレゼのことが好きであるという象徴であるとも受け取れる。

 

服を分け合う

最後に、海のシーンにおいて、レゼは、デンジのシャツを着たまま去っていく。つまり、デンジのシャツを持って帰っている。

普通に考えれば、デンジにシャツを返すと裸になってしまうから返せなかったのだろうが、ここも象徴的に考えることができる。

まず、レゼがデンジのシャツ着たまま去るということは、デンジの服の半分を持って去るということで、デンジが半分に裂かれることのメタファーとして捉えられる。特に、シャツ=上半身=心と考えると、レゼがデンジの心を奪って去ったとも考えられる。

あるいは、レゼの視点から考えると、デンジの上半身を持ち去っているとも捉えられ、その場合、レゼがデンジと距離的には離れても、デンジと心では離れられないことを示している。実際、レゼは、デンジを忘れ去ることができず、またデンジに会おうとする。それが、非常に危険だとわかっていたのに。

このようなレゼとデンジの、一旦は別れても、互いに思い合っていて、どうしても会おうとしてしまうようなお互いの心を、分け合った服が象徴しているとも考えられる。

 

プールと海

そして、シーンの中心的な象徴であるプールと海。

これは、プールが囲いの中であるのに対して、海はどこまでも広がっていることが対比され、象徴となっている。

檻と自由

プールは、囲いの中であり、内側に閉ざされていて有限である。どこにも繋がっていない。

つまり、プールは象徴的には檻のようなものだと考えられる。本作の場合、檻とは、それぞれが所属する組織である。デンジであれば公安で、レゼであればソ連の組織である。

レゼが学校に行ったことのないデンジに、「おかしい」と言うように、そして、そのレゼもまた学校に行ったことがないように、彼らは「普通」を奪われている。デンジとレゼが、プールではしゃぐのは、いわば檻の中の自由であり、彼らに許された「普通ごっこ」のようなものなのである。

また、プールには、通常、監視員がいる。監視員は、泳いでいる人たちが溺れないように見張っている。このプールのシーンでは、二人きりで監視員はいないように思われたが、実際はマキマが二人の様子を監視していた。二人はいわば、マキマに「泳がされていた」とも言える。

監視員のいるプールは、溺れないように守られた環境でもある。それは、組織のなかに囚われているデンジとレゼも同じことだ。組織は、彼らを危険に晒すが、同時に組織が彼らに居場所を与え、彼らを守ってもいるのだ。

その檻から抜け出すには、外と繋がっている海に乗り出すしかない。つまり、海とは、外側に開かれていること、そして束縛からの自由の象徴なのである。

モラトリアムと決断

プールを囲われた空間であると考えると、それは現実からの避難所や待避所であるとも考えられる。

デンジとレゼがプールで二人きりで遊んでいた時間は、お互いが敵同士の組織に所属していて、それぞれその組織の檻の中にいるという事実を忘れることができた時間である。束の間の時間だけ、現実を忘れて、心のままに二人でいることを楽しむ。
だが、それは、永続することのない有限な時間、すなわちモラトリアムであり、やがては、現実に帰らなくてはならない。
本当にこの先もずっと永続的に関係を続けていくためには、組織の監視下から脱出し、組織の檻から抜け出さなければならない。
そのためには、どこまでもずっと続いている空間である海に乗り出さなくてはならない。その覚悟と決断が、海に象徴されているとも考えられる。

練習と本番

プールのシーンで、レゼはデンジに、「デンジ君の知らないこと、できないこと、私が全部教えてあげる」と言う。

プールのシーンの前の学校でのシーンも含めて、レゼはデンジに、「普通」の世界、すなわち、組織の檻の外の世界の存在を教えている。そして、檻の中を象徴するプールで、「泳ぎ方」をレゼがデンジに教えるというのは、この檻から抜け出して、二人で外の世界を生きるための練習というようにも読める。

そして、海のシーンでは、デンジが「一緒に逃げねえ?」と言い、「俺に泳ぎ方教えてくれたのはホントだろ?」と言う。これは、「外の世界を教えてくれて、その生き方を教えてくれたのはレゼだろ?」と考えることもできるだろう。

レゼはこれに対して、「もう少し賢くなって方がいいよ」といって、海に背を向け、砂浜を歩いて去っていく。このシーンは、極めて象徴的だ。

レゼは、デンジが好きだからこそ、自分と一緒に逃げることが、デンジを危険な目に合わせると分かっていて、デンジを自分と一緒に来させなかった。そして、海に背を向けて歩く。これは、海という外の世界=檻の外に出ることを、デンジのために諦めたということである。おそらく、デンジと出会う前の生活に戻ろうとしたのである。デンジの服を着て……。

これはとんでもない描写だろう。

まとめ

このように、要素をあげたらキリがないほど、舞台設定や描写が細かく練られている。だからこそ、ストーリーや心情描写が観客の心に迫るのだろう。

総括すれば本当に素晴らしい映画・漫画だといえる。

上記したような分析・考察にはさまざまな意見があるだろうが、あらためて一つ一つのシーンの意味をじっくり考えてみるきっかけになれば幸いである。

 

出典

劇場版『チェンソーマン レゼ篇』

漫画『チェンソーマン』第6巻

米津玄師,宇多田ヒカル「JANE DOE」×『チェンソーマン レゼ篇』MV/KenshiYonezu,HikaruUtada-JANE DOE×ChainsawMan–TheMovie:RezeArc(YouTube)