昨今、身体への関心が高まっている。以前に比べ、ジムに通う人は増え、食事に気を使う人も増えた。その原因の一部は、「人生100年時代」という標語が示すように、健康寿命への関心が高まったことにあると考えられる。
だが、それと同時に、健康とは関係なく、身体や身体的な感覚に価値を見出す傾向が強まっている。実際、身体的なものを求める傾向は、一般に健康意識の高まる中高年だけでなく、若年層にも見られる。グルメ番組や食を題材としたドラマは増えているし、サウナや筋トレも一般的な趣味となっている。
こうした身体への関心の高まりの背景をこの記事では論じる。
以下、まず、社会が意味や価値を生み出せなくなり、精神的な価値が弱体化したことを論じ、次に、肉体に特有な意味について論じる。
精神的価値の弱体化
まず、精神的な価値が弱体化する過程を論じる。
世間の消失
昨今、世間という観念が消失しつつある。詳しくは、この記事で論じているが、世間という感覚が薄れると同時に、個人の集団に対する帰属意識や、集団からの同調圧力が弱まってきているといえるだろう。
共通の価値の崩壊
こういった集団のまとまりが弱くなると、集団内の他者に対する関心が薄まる。その結果、集団内の個人が、お互いを比較することが少なくなる。
かつてであれば、ご近所付き合いがあり、近所同士での連帯が強かった。こうした連帯の強さは、助け合いを生むと同時に、相互に比較し、監視し合うような社会を形成していた。
だがこうした連帯がなくなり、相互を比較することがなくなると、その比較のために使われる基準も使われなくなる。関心のない人間について知ることはないし、自分と比較することもないだろう。
すると、集団内の個人を比較によって価値づけるような基準、すなわち価値基準が弱まることになる。
精神的価値の弱体化
集団は独自の価値基準をもつ。それは、集団が何に意味を見出すのかをまとめ、明確化したものである。
たとえば、学校においては、成績の良さに意味を見出し、それを価値基準とする。営業においては、成約件数を価値基準とするだろう。
何に価値を見出すのかは各集団によって異なるが、集団がまとまりをもち、連帯をもつならば、そこには価値基準が存在すると考えられる。それがたとえ、明確な目的をもたない集団や、小規模な集団であってもである。(1)
この価値基準は、集団が何に意味を見出すのかの基準であるため、意味の基準でもある。集団は意味を作り出し、それを基準化して、そこに属する人を価値づけ、序列化する。
つまり、集団は集団の成員に対して、価値や意味を与えるのである。そして、成員は、その価値や意味を内面化し、それに対して自ら価値を見出すようになる。
しかし、集団のまとまりが弱まると、集団の意味を見出す機能が弱体化する。そして、集団の成員として、集団が与える意味を自らの意味としてきた個人は、集団から放り出され、個人として新たに意味を見出していかなければならない。
個人化と肉体への回帰
価値の主体としての個人
現代において、集団はまとまりを失い、意味を生み出す機能を失った。集団に属していた個人は、集団から投げ出され、集団が与えてくれた意味からも投げ出された。こうして、個人は新たに自ら意味を見出す必要に迫られた。
価値の源泉としての肉体
個人は集団に依らない意味を見出すために、個人にとって身近で、直接的な肉体に立ち戻ることになった。肉体は、集団とは関係なく、個人に属している。つまり、肉体とは、個人に直接的に属している最も個人的なものであるといえる。
こうして、集団から切り離された個人は、最も個人的で直接的な存在である自分自身の肉体に立ち戻り、そこから意味を考えるようになった。つまり、集団での意味の形成が崩壊したため、個人レベルでの意味の発生装置としての肉体へと回帰したのである。
直接性としての感覚
肉体によって生み出される意味は、個人的な意味であり、私秘的である。そして、感覚的なものである。
たとえば、サウナにおいて、「整う」感覚は、完全に主観的なものであり、自分自身の肉体のみに与えられる感覚である。美味しいものを食べるときの感覚も同様である。
こうした直接的な感覚は、有無を言わさず個人に意味をもたらす。美味しいものは理屈抜きに美味しいし、「整う」感覚も体感するものである。つまり、感覚は、社会が生み出す価値の基準を経ずに意味をもたらしうるのである。
こうして、肉体による感覚という最も直接的で、原始的ともいえる感覚に価値を見出す傾向が強まったのである。
まとめ
以上を、順にまとめると、
・世間や集団の連帯の低下
・集団の意味を作る機能が低下
・精神的な意味が弱体化
・個人のレベルでの意味を生み出す肉体へ回帰
・感覚が意味を生み出す傾向が強まる
となる。
キーポイントは、価値や意味を生み出す機能が社会的な集団にあることと、肉体が個人に対して理屈抜きに意味を提示することである。
この記事では、肉体と感覚と意味の関係について、全体的な流れを概観した。各論理についての詳述は今後行う。
注釈
(1)集団が必ず価値基準をもつといえるのか、もつとしたらなぜなのかについては、今後のテーマである。