『これからの男の子たちへ』太田啓子著の批評1のつづきである。
疑問点
潔癖にしすぎることによる弊害
次の疑問点は、子供の世界を、クリーンにしすぎていいのかというものである。いわば、倫理的に潔癖にしすぎてはいないかということである。
本書において、男の子だからという理由で、問題行為を放置することが、有害な「男らしさ」につながるのではないか、という主張がなされている。(p.28〜)この箇所では、カンチョーやスカートめくりが問題行為として指摘されている。そして、著者は、これらに対し、かなり厳格な言葉で非難をしている。具体的には、「性暴力」や「性的虐待(引用)」としている。さらに、34歳の男性が同僚男性にエアコンプレッサーを肛門に吹き付けられ、死亡したという事件を紹介している。(p.30)
確かにカンチョーやスカートめくりは、犯罪である。それをやられた方は、理不尽な目にあっている被害者である。おそらく今後、教育の場において指導が入り、減少してくだろう。それは、現代において、殴り合いや怒鳴り合いなどの喧嘩が以前に比べ減少していることと似ているだろう。今後、「大人の社会で許されないこと」を子供に対しても禁止する動きは加速するかもしれない。
しかし、このことには二つの懸念点がある。
一つ目は、大人の世界の倫理を、大人の持つ権力、すなわち力を背景とした強制力によって子供に押し付けていること。
二つ目は、すべての倫理的には悪いことを禁止することが子供にとってよいことなのか。
である。
一つ目については、大人の世界と子供の世界は分けて考えるべきではないか、である。そもそも、子供は、大人とは、知能的にも、身体能力的にも異なる存在である。ところが、このような禁止は、大人の世界において悪質であるという理由によって、問答無用で子供に対して課されていると思われる。つまり、この禁止は、大人の知能によって導かれた大人の倫理によって、大人の権力、すなわち最終的には暴力的な力によって強制されている。
確かに相手の身体を傷つける行為は減った方がいい。しかし、大人の世界と同様の規制を子供の世界にかけるべきかは、慎重になった方がいい。子供は知能的にも、身体能力的にも大人よりも低い。そのような子供に対して、大人の世界で起きた事例を参照し、規制をかけることは、妥当ではない。あくまでも、子供の世界で起こりうる事態の深刻さから判断し、規制をかけるべきだろう。
また、子供の世界に大人側から規制をかけることの方法についても、十分に考えた方がいいだろう。なぜなら、こうした一方的な禁止は心理的な抑圧を生み、反動を伴うからだ。個人的には、大人がそれが重大なことであると、真剣な顔をして子供を制することは、本当に危険なことに限定し、可能な限り控えた方がいいと思う。カンチョーやスカートめくりがこの重大なことに該当するかどうかは、社会的に考えるべきだろう。
二つ目については、倫理的な悪いことを可能な限り浄化することが、子供の発達にとって望ましいのかということである。ほとんどすべてのことには良い側面と悪い側面がある。現在、教師による体罰は禁止された。それ自体は良いことだが、その反面として、子供のメンタルの弱さや、あるいは学級崩壊などを引き起こしうるかもしれない。こういった善悪のバランスを波及的に考えることが必要だ。(その上で、体罰を禁止すべきであると個人的には思うが、それは今後の社会が決めていくことだ)
もちろん、社会は正しく、善くあったほうがいい。しかし、現実はそうではない。ゼロコロナが不可能なように、現実において悪を排除することはできない。それにもかかわらず、子供の世界において、大人がその悪を必要以上に浄化してしまうことは、子供が大人の社会に出たときに、問題を引き起こすのではないか。悪や暴力に対する免疫も少しは具えておく必要があるのではないか。当然のことだが、原則的に子供は守られるべきであり、深刻な傷を負うべきではない。線引きをどこでするのかという問題である。
また、付け加えるならば、この議論には、著者個人の体験が強く影響を与えている。著者自身がカンチョーをされた経験があり、それが不快感として強く記憶に残っている(p.29-30)と述べている。もちろん、この不快な経験は軽視されるべきではない。それは、著者にとっては重大な出来事だろう。しかし、社会的な提言が個人的な経験によって過度に歪められることは望ましくない。社会を規制することは、個人的な経験ではなく、客観性に基づくべきだろう。具体的には、本当に多くの人がカンチョーによって強い精神的な傷を負っているのかを、考えるべきだ。その上で、一般的にそうであるならば、当然規制した方が良い。
えてして、被害者は加害者に対して厳罰を望む感情を抱く。そういった極端な感情をもとにして、規制を考えると、ときに妥当性を欠くことになる。また、書き手として、何らかの主張をする際に、自身の体験に基づくことには何ら問題はないが、それによって客観性が求められるような主張が歪められることには注意を払うべきだと思う。私としては、本書全体にそういった個人的な感情が無自覚的に流れているという印象を受けてしまった。(カンチョーやスカートめくりを「性暴力」や「性的虐待」といった極めて深刻度の高い概念に含めることは、すでにそこに含まれている重大な犯罪と比較して妥当であると本当に言えるのか。また、34歳男性の例を紹介することは、客観的な必要性があるのか。)
まとめ
本書を読んで、概ね賛同できる内容であると感じた。それにもかかわらず、疑問・批評が増えた原因は、この種の問題が単純化できない複雑な問題であるからだろう。
表面上、男性による女性への暴力が多く、その程度が深刻であるからといって、それがすなわち性別に基づく価値規範である「男らしさ」に起因するとしてよいのか。たしかに、「男である」ということを笠に着て女性に対して蔑視する人間は存在するが、それは、あらゆる「ハラスメント」、あるいは、「マウント」において見られる現象であり、その本質は性差を超えた人間の弱者への嗜虐性なのではないか。
こういったことを私は考えた。