『これからの男の子たちへ』太田啓子著の批評1

『これからの男の子たちへ』という本を読んだ。内容は、旧来のステレオタイプ的な「男らしさ」の価値観がもたらす弊害について論じられている。

論じられている内容は、どれも原理的に正しく、そうあるべきだと思えるような内容になっていると思う。一方で、その原理的な正しさゆえに、理想論的な要素があるように思えた。また、やや著者個人の主観性に傾いているようにも思えた。

以下、本書の賛同できる点と疑問点を論じる。

 

賛同する点

原理的な正しさ

著者の根本的な主張は、原理的に正しいと思われる。著者の主張の根幹をまとめると、

身体的な性別と、社会的な性別に対するステレオタイプ、すなわち「らしさ」は必ずしも一致しない。だが、社会には両者を結びつけるメッセージが多い。その結果、人は自身の身体的な性別に合致する「男・女らしさ」を内面化するように促される。このような内面化は、特に男性にとって、本人の意にそぐわない「男らしさ」を押し付ける可能性をもつ。

また、「男らしさ」の規範には、社会的に有害な「男らしさ」が存在し、それを身につけてしまうと、男性優位的な思想や他者に対する傲慢さ、ひいては性犯罪を助長することになりかねない。

ゆえに、「男らしさ」から男性、特に未成熟な男子を解放したほうがよい。

といったものになるだろう。

この主張は、真っ当なものだろう。以下、要素に分解すると、

 

・身体的な性別とステレオタイプ的な性差による「らしさ」は必ずしも一致しない。

・そもそもステレオタイプ的な「らしさ」は本当に正しいのか

・「男らしさ」の規範・価値観のなかには、他者、とくに女性への攻撃的な側面がある

・こうした攻撃性をもつ「男らしさ」を内面化すれば、犯罪につながりうる

 

というようになるだろう。

これらはいずれも正しいだろう。

 

疑問点

一方、疑問点も存在する。

生物学的な性差の過小評価

そもそも、性差は存在するという点だ。これは著者も否定はしていない。ただ、過小評価しているのではないかと思われる。男の子はやんちゃだとまわりから思われているから、その子がやんちゃになるということは、ひょっとしたらありえるかもしれないが、それが主たる原因であるとは考えにくだろう。

同様に、男性の攻撃性について、「男らしさ」がそれを助長させることはありうるだろう。だが、そもそも生物学的にも、歴史的にも、社会的にも、男性には攻撃性を伴う性格が、太古から必要とされてきたことを否定することはできないだろう。

 

「男らしさ」に問題を起因させすぎているのではないか

差別的思想をもつことと犯罪を犯すことは異なる

すべての問題を「男らしさ」に集約し、そのグラデーションのように考えてよいのか。つまり、「男らしさ」が、「有害な男らしさ」につながり、その結果、性犯罪を犯すというように連続的に考えてよいのか。思想としてもつことと実際に犯罪を犯すことの間には大きな隔たりがあるはずだ。

実際に性犯罪を犯す人間には、何か別の要因が働いていると思わざるを得ない。性犯罪を犯す人間が「有害な男らしさ」をもっているからといって、「有害な男らしさ」をもっていれば、それが性犯罪の原因になるわけではない。(死亡した人間が皆、水を飲んでいたからといって、水を飲んだから死亡したわけではない)

「男らしさ」と「有害な男らしさ」は異なる

著者は、身近な「男らしさ」や「男の子っぽさ」と、女性蔑視や性犯罪につながるような「有害な男らしさ」を、同じカテゴリーのものであると考えている。それゆえに、著者は、自身の息子に対して、それ自体は差別的要素を持たない「男らしさ」に関しても、注意をしている。(p.18)

このように、一般的な「男らしさ」と犯罪につながるような「有害な男らしさ」を同じカテゴリーで延長的に考えてよいのだろうか。たとえば、「男らしさ」に肉体的・精神的な強さを認める、「男らしく」あろうとする人が、自分は女性より優位な存在であると考えるだろうか。むしろ、強くあるがゆえに、他者に謙虚に寛容になるのではないか。つまり、「有害な」という形容詞をつけて、両カテゴリーを延長的に考えることは不可能なのではないか。むしろ、両者は全く別のカテゴリーなのではないか。

確かに、男であるがゆえに女性蔑視的な言動をする人間は存在する。しかし、そのような言動をとることは、どう考えても「男らしい」とは言えないのではないか。種々の自らの属するカテゴリーを笠に着て、優越感に浸る、あるいは他人を差別する人間は、男女というカテゴリーに関係なく存在する。

また、ホモ・ソーシャルな環境における問題も指摘されているが、それも全ての原因を「男らしさ」に収斂させることには無理があるだろう。どのような価値観をそのホモ・ソーシャルが打ち立てるかに関しては、自身の性的な要素が影響を与えるだろうが、ホモ・ソーシャルの根本的な問題点は、その同調圧力や集団への帰属の欲求、あるいは孤独の不安だろう。

したがって、「男らしさ」という言葉はきわめて曖昧であり、拡大解釈が可能であるということである。ゆえに、男性の肯定的な性質も、否定的な性質も一緒くたに、この「男らしさ」でくくられてしまっているのではないだろうか。そして、著者は男性による犯罪を、それが男性によって行われ、かつ特に女性に対して行われたがゆえに、それを「男らしさ」という性的な要素に還元しているのではないか。もしそうなのだとしたら、著者は性差別を否定していながら、性差別的な前提をもっているということになる。

 

そもそも問題の本質は「男らしさ」なのか

本書では、「男らしさ」に起因する問題として、男性の女性に対するさまざまな攻撃(ハラスメントや性暴力など)が中心的に取り上げられている。著者の理論では、これは男性がもつ「男らしさ」に有害性があるからということなのだが、この問題は本当に性的な問題に還元できる問題なのだろうか。

上述したように、「男らしさ」が強さを求めるものだとすれば、その価値規範が女性蔑視へと即座につながるものだとは、論理的にはできないはずだ。そこには、新たな価値観である「強いものは偉い」といったような、弱者蔑視の思想が混入しなければならない。

つまり、この問題は、一般化して、(立場や力が)強いものが、弱いものに対して行う攻撃なのではないか。つまり、男性性や女性性とは関係なく、人間一般に存在する、「弱いものいじめ」の構造なのではないか。この世界において、立場や身体的に男性が女性よりも強い場合が多いため、男性から女性に対する攻撃が多いだけで、問題の本質は強いものが弱いものを攻撃するという人間一般にそなわる性質なのではないか。

したがって、男性であるがゆえの「男らしさ」が、女性への暴力の原因であるというのはそもそも間違いなのではないか。確かに、男性の女性に対する暴力は、性的な暴力という性差が関することがあるが、それは攻撃の表現形態の一つであり、本質は、強い人間による弱い人間への攻撃であり、その問題にとって性的な要素は副次的なものなのではないか。

たとえば、親から子への虐待においては、子供特有の弱さに対して暴力が振るわれる。それは、食事を与えないとか、ケアの放棄などである。パワハラでは、部下であるという弱さに対してである。これらの暴力は、おそらく性別に関係なく行われるだろう。このように、問題の本質は、「男らしさ」という性別に関する価値的な規範なのではなく、弱者に対する暴力なのではないか。

もしそうであれば、どんなに「男らしさ」を社会的に浄化したとしても、強者の弱者に対する暴力は残り続ける。なぜなら、それは人間一般における性質であるからだ。事実、「ハラスメント」と名のつくものは多いが、それらは全て立場が強いものから弱いものに対するものであるだろう。

 

「らしさ」の危険性から自由になることはできないのではないか

そもそも「らしさ」から自由になれるか

人間にとって、「らしさ」という外的な規範的観念から自由になることは可能なのだろうか。歴史上「らしさ」から解放された社会はあっただろうか。

人は社会のなかで、他者との関係の中に生きている。そして、人はその他者に対して、理解可能であり、意思疎通が可能である存在でなければならない。つまり、社会的な関係において「通用」しなければならない。「通用」しない理解不能な人間は、同一の集団の、共通の前提を共有したコミュニケーションに参入できない。

すべてのカテゴリーから自由であること、その人であるとしか言えないような個人は、現状認められていない。自己紹介において、複数の項目の組み合わせによって、「個性」が認められるように、カテゴリーを離れた個人としてコミュニケーションをとることが可能だとは思われない。つまり、「らしさ」が多様化しているとはいえ、「らしさ」を離れて集団のなかで個が成り立つとは思われない。

したがって、そもそも「らしさ」から自由になることは不可能なのではないか。

「らしさ」の危険性

また、「男らしさ」の有害性が本書においては強調されているが、別の「らしさ」も原理的に有害性・危険性をもつのではないか。

そもそも、本書が行うように、個別の人間の有害性を、そのカテゴリーの「らしさ」に還元すれば、いかなるカテゴリーであっても、その有害性を主張できることになる。

 

 

 

『これからの男の子たちへ』太田啓子著の批評2へとつづく

『これからの男の子たちへ』太田啓子著の批評2