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前回、集中についての基本的な分析を行なった。そこでは、集中状態が選択肢の排除であることを論じた。そして、選択肢の浮上は、集中の途切れであり、この状態が集中と対照的な迷いであるとした。今回はこの二つの概念がどういった価値をもつのか、集中すべきときと迷うべきときについて考える。
不可逆な選択
集中するということのプロセスは、選択肢のなかから何かを選び、その一つと排他的な関係を結ぶ、というものだった。
これらの選択肢とは、自分と対象との関係の可能性である。そして、自分が対象と関係をもつことで、自分の状態が変化する。たとえば、私が、レストランでカレーを注文すれば、私はカレーとの関係を結び、私はカレーを食べることができるという状態へと変化する。働く場所と関係を結べば、そこで働いている社員という状態になる。つまり、何かを選択し、関係をもつことで、人は何かの状態になる。そして、この何かの状態になりうる可能性が、状態変化の可能性であり、選択肢である。
人はあらゆる領域において、何らかの状態にある。なぜなら、私は〇〇である、と言える分だけ人はその状態にあるからだ。そして、その状態はその領域において、自分が取りうる唯一の状態である。つまり、集中していることになる。たとえば、昼食に自分は何を食べるのか迷っているとする。そのとき、自分は、昼食に何を食べるのか未決定状態にある。これは、どの昼食のメニューに対して自分が関係をもつのかについて可能性をもっていることである。そして、カレーに決定すると、自分が昼食に何を食べるのかの状態がカレーに決定され、これ以外の状態は取れなくなり、カレーに集中することになる。つまり、この選択は、不可逆的なのである。
昼食に何を食べるかが決定された状態は、自分にとって大したことのない状態かもしれないが、より人生において重要なことについてもこれはあてはまる。より長期的なことがらについては特にそうである。自分がどのような対象と関係を結び、その結果どのような状態になりたいのか、より慎重に決定されるだろう。たとえば、結婚相手を決定するときが良い例だろう。結婚するしないの選択をし、排他的な関係を結ぶ。すなわち、その相手に集中する。それによって、人はその相手と結婚しているという状態になる。これは、不可逆的な選択である。
ここで、食事の場合は再注文、結婚の場合は離婚からの再婚が可能だから、不可逆的な選択ではないという主張もあるだろうが、その主張は、機会の一回性を見落としている。この機会、この瞬間はあくまでも一回きりであり、再度違う選択をすることは、その選択のやり直しではなく、別の選択をもう一度しているということになる。
選択の留保による空想
以上のように、選択とその結果の状態変化は、不可逆的なものである。ゆえに、その選択は負荷のかかる重いものになる。特に結婚のような重大な状態選択の場合はそうである。となると、その選択が失敗すると困るので、人は事前にその選択がうまくいくのか想像することになる。これをシミュレーションといってもいいかもしれない。この想像では、選択後の仮想的な状態が描かれ、そこには期待や不安がこもるだろう。そしてそのうち、想像上の自分と現実の自分が一体化していく。
このことは、現実の自分がなりうる可能性としての自分が、まるで今現在の自分を上書きするかのようである。それは、選択とその状態への集中がもたらすいくつかのリスク、デメリットを回避したまま、仮想的に選択し、その気になるというものである。そして、主観的な世界と客観的な世界を生きる人間の性質を利用した、ある意味、無責任ではあるものの、リスクのない合理的な手法でもある。
現実と想像の自己が分離した状態で存在し、それらが混同されるとき、想像の現実化が保留され、想像上の現実化が恒常化する。これはつまり、選択肢の手前に立って選択し得る状態=可能性のある状態を保つことを求め、実際に選択しそれ以外の選択肢を排除して集中すること、すなわちなにかになることを忌避する性向へとつながる。いわば、常に空想している、夢をみている人になるということである。
可能性への欲求
こうしたことは、人間の性質なのだろう。計画やアイデアを立てるのは好きだが、実行はしない人は多い。このことに対する実践的なアプローチは今度に譲り、ここでは、この可能性への欲求を考える。
いくつかの具体例を使って考えたい。その具体例は、若さへの羨望、全くの他人への異常な関心、自分に対する疑念である。
まず一つ目は、若さへの羨望である。若さといってもいろいろあるが、ここでは若さを可能性として捉えたときの羨望である。特に学生時代に年上の人からよく言われることに、「若いからこれからなんにでもなれるね」といったようなことがあるだろう。大抵その文言の前には、「いいねえ」などの羨望のニュアンスを含んだ言葉がある。これはあまりにもあたりまえに言われるために見過ごしてきたが、本当は考える必要のある問題である。
つまり、なぜ、「なんにでもなれる」ことが羨ましいのか。なぜ、「なんにでもなれる」ことが「すでになにかである」ことよりも、望ましいのか、ということである。これは、今すでにある現実よりも可能性としての未来のほうが良いと考えているということに他ならないだろう。しかし、可能性とは、あくまでも可能性であり、今まで見てきたように、不可逆的な選択の可能性である。この選択による状態の確定を避けるために、人は、想像・空想をするほどなのだ。つまり、選択することは避けるのに、選択することができるという可能性は欲しているということになる。
二つ目に、全くの他人への異常な関心である。他人への適度な関心は当然必要だろうが、さまざまな場面において、他人へ異常な関心を示す光景が見られる。たとえば、会ったこともない他人に対する度がすぎる応援、誹謗中傷、スキャンダルを知るたがるなどである。言うまでもないことだが、他人は他人の人生を生きており、自らの利益のために行動している。そして、他人に生じた利益・不利益は、自分にとって大抵は関係がない。しかし、現実には全くの他人に関して、一喜一憂する人が少なからず存在する。つまり、彼らは、自らの人生と全く関係のないことに対して関心を持ち、感情的になるのだから、彼らは一方的に他人の利害関心を共有しているということになる。これはほとんど、他人と自分を想像上で混同しているといえるだろう。念の為補足すると、ここでは、他人について批判する意図はなく、そういった現象が明らかに見られるため、その現象について分析することが目的である。そして、おそらく、健全な精神とは、他人の幸福を心の片隅で常に願っていることだろう。
三つ目に、自分に対する疑念である。これは、自分のやることや自分の選択について常に懐疑的になり、集中することができないことである。たとえば、自分の仕事や生活に対して、「こんなことをやっていていいのだろうか」と疑念を感じることである。当然これも、適度なものであればむしろ必要だろうが、何かを選択した途端に後悔したり、自分のすることに自信がもてない場合には問題だろう。こういった場合、自分の選択した状態に集中できず、選択の時点に戻ろうとしているといえる。つまり、一つ目が選択できる状態、可能性を欲するものであったのに対して、三つ目は選択を取り消そうとすることを欲する、集中状態に居心地の悪さを感じるといえるだろう。
現実に奉仕する可能性への転換
以上のように、人は現実になにかであること、すなわち、選択肢という可能性から何かを選択し、それ以外を排除して、何らかの状態になり、それに集中することができない場合がある。その要因として、選択の不可逆性を恐れて空想と現実を混同したり、選択できるからこそ価値のある可能性なのに選択できる状態を欲したり、自分の現実ではなく他人であることの可能性の中に逃避したり、選択と集中の持つ排他性から現実に疑念をもったりすることが挙げられた。
おそらく、現実を直視し、その現実に集中することは真っ当な生き方だろう。なぜならば、現実の自分は厳として存在するわけだし、その中でしか自分は何かを得ることはできないからである。当たっていたかもしれない宝くじを想像上に抱き続けても何も手に入らないし、誰かの人生のつもりになっても、誰かの人生を生きることはできない。よって、この想像上のものをいかに現実に資するようにするのかが問題となるだろう。
想像が現実に資するパターンは、その想像が現実をより良くする場合だろう。それは、あくまでも現実をベースに考えるべきだろう。想像が現実とかけ離れている場合には、現実の方に何か問題があるはずだ。その場合には、現実を閉塞している原因を突き止めて、それを解消しなくてはならない。それができないから、想像上の自己が乖離しているのだというならば、現状の現実がこの先ずっと続くことを想像するといいだろう。その想像は都合の良い空想を打ち消す反作用的な力をもつはずだ。そして、この先この現実が続くことを想像した中で、最も我慢ならないこと、暗い未来を予感させるものを現実的な方法でどかしていくことが必要だ。このように考えると、現実から出発して想像を現実を変更していく力に変えることができる。
考える必要のあるもう一つのケースとして、現実を強固に肯定するないしは、現実に盲従しその正当性を疑うことができないということがあるだろう。このケースには、想像力の欠如が関わっている。つまり、現実を対置し、それを審問する想像上の世界をもたないことにある。しかし、このことは、集中力についての分析を超えるので今後に譲ることにする。
まとめ
集中について分析する過程で、その集中を妨げる原因について考えざるを得なくなった。それは、可能性を想像しそれを自分自身と同一視することによって、現実を見失い現実を肯定する=その現実に集中することを不可能にするという人間の性向であった。人間にとって、迷いや自己反省、こうありたいという理想像はある程度大事だが、それは現実の人生の地盤の安定性を前提としているはずだ。要するに、こうでない自分や、こうありたい自分を考える前に、現にこうある自分を考えるべきだということである。