何かをすることの目的を見出そうとすることについて、論じる。
人生のなかの目的
人生には、いくつもの目的が存在している。たとえば、空腹を満たすという目的や、お金を稼ぐといった目的である。
こうした目的は、互いにバラバラに存在するのではなく、連鎖しあっている。
たとえば、海外でコミュニケーションをとるためには、英語を上達する必要があり、英語を上達するためには、英単語を覚えなければならないといったようにである。
このように、人生のなかにあるいくつもの目的は、下位の目的が上位の目的のための手段となっており、それが連鎖するという構造をもっている。
この連鎖は、しいていえば幸福な人生という究極の目的に至るともいえるが、この幸福とは個々の目的を抽象化した概念であるとも考えられる。よって、人生における目的は、完結しない連鎖構造をもっているといえるだろう。
ゲームのなかの目的
ゲームのなかの目的は、こうした人生における目的の構造とは異なる。
ここでのゲームとは、決められたルールに則って勝敗を競うものである。ルールがあって勝敗を決めるものであれば、スポーツであれ、テーブルゲームであれ、しりとりであれゲームと呼びうる。
ゲームは、勝負を決めるために独自のルールとプレイングをもっている。テニスであれば、ラケットでボール打ち合うし、将棋であれば盤を挟んで駒を差し合う。また、そのゲームに勝つための様々な戦術が存在する。
こういった独自のルールとプレイングは、そのゲームをするために存在しているのであり、他の何かのためではない。ゲームに伴うあらゆる行為は、全てそのゲームを行うことを目的としており、そのゲームをするという目的のなかで完結している。
たとえば、テニスをしている人に、「なぜラケットを振っているのか」と尋ねれば、「テニスをしているから」と言う以外には返答のしようがない。ルールに従うことも、戦術を使うことも同様に、ゲームのためである。
このように、ゲームとは、その内側で行われるすべてのことが、「そのゲームのため」という究極の目的をもつ。つまり、目的は連鎖的ではなく、内側で完結するのである。
ゲーム自体の目的
ゲームの内側で行うことは、すべてゲームのためという目的をもつ。では、そのゲームを行うことそれ自体はなにを目的としているのか。
たとえば、何のためにテニスをするのかに対して、健康のためと答えるのであれば、テニスというゲームを行うことを、ゲーム自体とは関係のない「健康」によって、ゲームを意味づけていることになる。
つまり、ゲームそれ自体を目的づけるには、ゲーム以外の別の何かによって目的づけることになる。
したがって、ゲームに対して目的を問うことは、二つに分けられる。
一つは、ゲームをやっている最中の行為、すなわちゲームの内側での行為に対する目的である。これは、すべて「ゲームのため」という目的をもつ。
もう一つは、そのゲーム自体の目的である。これは、ゲームの外側からそのゲームを目的づける。
目的を問うとは何か
以上のことから、何かに対して目的を問うことについて、以下のように論じることができる。
まず、ゲームは、ゲームをする際の行為の全てがゲームを目的とする。これはすなわち、その目的のための行為という枠組みを作り、その枠の内部の行為を一つの目的のために集約するような構造があるといえる。
そして、その枠組み自体の目的を問うためには、枠組みの外側からそれを意味づけなければならない。
人生における目的は、ゲームのような内外を分ける枠組みが存在しないため、全ての目的が、その外側から意味づけられるのである。ゆえに、目的が連鎖するのである。
目的を外側から意味づけることの是非
目的をその外側から意味づけることは、有意義なのだろうか。
人生における目的の場合は、有意義だろう。人生における目的は、目的が手段となる連鎖構造である。ゆえに、達成しようとしている目的がそもそも何の目的のためであったのかを忘れやすい。つまり、上位の目的である目的の目的を忘れやすい。
そのため、一旦その目的自体を問い直し、なぜその目的を達成する必要があるのかを考えることが、ときに重要となる。この目的について問い直すことは、現在の目的の枠組みの外に出ることであり、その目的自体をより高次の目的のもとに据え直すという行為である。
これは、本来の目的を思い出し、手段と目的の混同や本末転倒を避けるために役にたつ。
しかし、それは、人生のように目的が連続的な構造をもっている場合だけである。ゲームについてなぜその行為をするのか、なぜそのルールに従うのかを聞くことは本質的には意味がないだろう。
なぜならば、それ自体が完結した一つの目的だからである。この完結した目的に対して、さらに外側から意味付けようとしても、その目的からは遠ざかっていくだろう。それは、完結している以上、その目的がなにか別の目的を要しないのである。
このような完結した目的について考えたいのであれば、その目的を考えるのではなく、それがなぜ完結しているのかについて、その内側から考えるべきであろう。
そして、このことは、人生自体についてその目的を問うことに対してもいえるだろう。人生の目的を、人生の外側から見出すのではなく、人生を生きることによって見出すべきであるということだ。