良い道具を使う体験について考える

先日、喫茶店で、少し高級な万年筆を使う機会がありました。その万年筆を使っていると、なんともいえない「いいものを使っているな」という満足感を覚えました。そして、この満足感の原因は何だろうかと考えてみたくなりました。

そこで今回は、良い道具とは何なのかについて考え、良い道具を使う体験について考えます。

 

良い道具についての分析

良い道具とは

良い道具とは、その道具を使って行う行為を、よりよく補助してくれるものであるといえます。たとえば、ナイフだったら、切りやすいナイフ、万年筆であれば書きやすい万年筆が良い道具ということになるでしょう。

良い道具の使用体験

よりよく補助してくれるということは、よりスムーズにストレスなくその行為を行えるということです。

たとえば、万年筆であれば、それが手に馴染み、書き味が滑らかで、まるでその万年筆が手の延長であるかのように使えるものが、良い万年筆だといえるでしょう。より大きな道具である車にしても、ドライバーと一体になって、ドライバーの意思を即座に反映することができる車がいい車といわれます。

反対に、悪い道具を使った場合、その行為を円滑に行うことができず、ストレスとなります。

たとえば、書き味の悪いペンを使った場合、持ちにくかったり、インクが出にくかったりして、行なっている行為に集中することができません。この場合は、その行為中に、ペンにばかり気を取られてしまうことになります。

したがって、よい道具とは、体に馴染み、自分の体の延長かのように使えるものであるといえます。つまり、良い道具はそれを使っている最中に、その道具について意識させないような道具であるのです。

良い道具は脇役なのか

上記のように、良い道具とは、それを使う行為を容易にし、その行為の遂行を効率的に助けます。そして、その行為の最中には、その行為への集中を妨げないため、良い道具はそれが使われている最中には意識されないのです。

このように、道具はそれが使用されている最中に意識されないということは、道具はあくまでも行為者の邪魔をしない存在であり、脇役であるということになります。となると、道具は自らの存在を主張すること、すなわち個性を発揮できないということになってしまいます。

しかし、道具は実際、単なる脇役・補助以上の存在でありえるのです。事実、私自身、喫茶店で万年筆を使ったときに、満足感を覚えました。ではなぜ使用中には意識されない道具が、単なる補助を超えた存在になりうるのか。このことを説明するには、道具が使用されていないときについて考える必要があります。

 

良い道具を持つことの満足感

使われていないときの良い道具

道具の主目的は、使われることにあります。それは間違いないでしょう。しかし、良い道具は使われていないときも、価値をもちます。

使われていないときとは、一時的に行為を中断しているときや、完全にその行為を離れているときのどちらの時も指します。私自身が、満足感を感じたのは、文章を書いている最中にふとその万年筆を使っていることを意識したときでした。この場合は、行為を一時中断したときでしょう。

どちらの場合においても、良い道具は価値をもっています。

使用を触発する

道具は使われていないときにも存在し、その所有者に何かを訴えています。特にそれが良い道具であればあるほどそうでしょう。その訴える内容として、第一に挙げられるのは、道具の使用でしょう。

良い道具を使うとき、その道具を意識することはあまりありませんが、使用後にその行為・作業が捗ったこと、それに道具が寄与したことを振り返ります。そして、その道具に満足感を覚えるのです。

この使用後の満足感は、その道具を再び使おうというモチベーションになります。

したがって、良い道具は、その使用後に満足を与えるため、それを再び使おうとさせます。

良い道具を大事にする

良い道具に対して、その所有者は価値があると感じています。この価値があるという感覚が、その道具を使用していないときにも、使用者に価値をもたらすのです。

人は、何かに対してそれが価値のある物だと認めると、それを大事にします。価値があると認め、大事にするということは、それに対して、そのように思い、そのように扱うということです。道具であれば、それが意識されるたびに、これは大事なものであると思い、大事に扱おうとします。

このような存在が身の回りに存在していると、日常的に、価値を認めたり、大事にしたりすることが増えます。そうしたら、その日常には、価値をみとめ、大事にするという感覚が増えるということであり、日常自体もまた価値をもち、大事にされることにつながるでしょう。

 

別のものによって統御される

何かに対して価値を認め、大事にすることとは何なのかについて少し考えてみます。

価値を認めるということは、そのものを自分の自由にできず、自分が支配することができないということです。

なぜなら、価値があると認めるということは、その対象に対して普通ではない意味を認めるということだからです。この普通でない意味とは、その対象が特別な存在であり、替えの効かない存在であるということです。特別であり替えが効かないものは、失えば取り返しがつかないものであるため、大事にしなくてはなりません。この大事にするとは、自分がその存在の要求を聞かなければならず、その存在のために尽くさなければなりません。つまり、自分がその存在に対して権利をもっているのではなく、その存在が自分に権利をもっているという状態です。この状態は、自分の主体性や自己決定権が、その存在に握られているということです。

反対に、価値を認めないものは、他と区別することができず、替えが効く存在です。このような存在は、それが無くなること、棄損されることに対してさほど気に留めることがありません。なぜなら、それは替えが効く、すなわち、それがそれである必要を感じていないからです。つまり、それがそれであることの意味、対象の個別性を考えていないということです。おそらくそういったものに対しては、単なる機能・手段としてしかみていないでしょう。こうした存在は、完全に自分が好きなようにコントロールすることができ、その存在の要求を効く必要もありません。

このように、自分にとって大事なもの、意味を持つものは、自分がそれを自分を超えたところにあり、自分に命令したり、自分を従わせることのできるものなのです。その存在を前に、自分は要求を聞かなければならず、むしろ統御されるのです。これは、自分の主権、すなわち自己中心性が崩れる体験であり、この体験によって、自分を超えた存在を見出し、それによって、自己中心的な満足を超えた生きる意味を見出すことにつながります。

 

まとめ

今回は良い道具とは何かと、良い道具と使用者の関係について考えました。良い道具とは、それを使っているときだけでなく、使っていないときにも価値があること。その価値とは、その道具によって使用者が動かされること、つまり、また使いたいとか、大事にしなくてはと思うことにあるということを論じました。

道具と使用者の関係については、まだまだ考える余地があると思うので、今後も扱っていきたいと思います。