胡蝶しのぶの死亡から考える—なぜ工夫するキャラは生き残れないか—

『劇場版「鬼滅の刃」 無限城編 第一章猗窩座再来』にて、蟲柱である胡蝶しのぶが、上弦の二の鬼、童磨に殺された。

しかも、かなりあっさりと殺されてしまったように思える。胡蝶と童磨の実力差はかなりあったように思え、胡蝶は、童磨相手に、最後に一矢報いるも、ほとんどノーチャンスだったといっていいだろう。

いくら上弦の二が強力だからといって、胡蝶がこのように殺されてしまうのは、かわいそうに思える。また、他の物語においても、胡蝶のようなハンデを抱えつつも、工夫によって相手を倒していくようなキャラは、どうにも不遇な扱いを受けがちなのではないかとも思う。

この記事では、なぜ胡蝶のような「王道的な力」をもたず「工夫をする」キャラが不遇な扱いを受けるのかを考えてみる。

 

胡蝶しのぶについて

胡蝶しのぶは、他の鬼殺隊の隊員に比べて、体格が小さく、鬼の首を斬ることができない。鬼は基本的に首を切り落とさないと死なないのだが、首を斬れない胡蝶は、首を斬る代わりに、調合した藤の花の毒によって、鬼を殺してきた。

この鬼を殺す毒は、刀の鞘に仕込まれており、胡蝶が対峙する鬼ごとに、その場で瞬時に調合するという超絶技によって生み出されている。映画においても、何種類もの毒を調合し、童磨が対応するたびに、毒を変えて戦っていた。

このような工夫によって、胡蝶は自分の体格的ハンデと非力さをカバーし、鬼殺隊でも最上位の柱になれたのである。

 

評価される力と過小評価される工夫

胡蝶と対照的なキャラ

胡蝶のような、ハンデを工夫でカバーするキャラクターの対極にあるのが、『鬼滅の刃』でいえば、時透や悲鳴嶼である。というか、ほとんどの柱は、そうである。

彼らは、最初から強かったし、修行してもっと強くなった。つまり、元から才能も実力もあり、さらに、成長した結果、純粋に、「王道的な力」で相手をねじ伏せられるような存在になった。

王道的な力

ここでいう「王道的な力」とは、まっすぐな強さのことである。つまり、その作品において、通常、強さの尺度とされているものである。『鬼滅の刃』においては、鬼の首を斬る能力である。

また、この王道的な力は、通常の強さの尺度であるため、皆が評価する才能でもある。

たとえば、野球で言えば、球を早く投げられる能力や、恵まれた体格などである。要するに、その分野において、誰が見ても、強さにつながるとされる能力のことである。

ハンデと工夫

こういった王道的な強さを持っていない場合、それはハンデになる。そして、そのハンデを覆すには、工夫がいる。

胡蝶は王道的な強さである「首を斬る」ことができないというハンデがあるため、毒殺するという工夫をすることになった。他の漫画やアニメ、物語でも、王道的な強さはないが、その代わりに工夫によって、強さを手にしたキャラは多い。

工夫の不遇な扱い

だが、胡蝶がそうであるように、工夫するキャラの扱いは不遇である。彼らは、胡蝶のように、途中で死んでしまうか、あるいは、戦いには参加しなくなることが多いように思える。

少なくとも、王道的な実力は足りなかったが、工夫によって、ラスボス的な存在を倒した、という例は多くないように思える。

結局、才能も王道的な力もある「最強キャラ」のようなものが生き残るし、主人公は、なんだかんだ王道的な力を手にいれるパターンが多い。

 

工夫するキャラはなぜ不遇なのか

王道的な最強キャラがいいところをもっていき、工夫するキャラが不遇なのはなぜか。

①正々堂々でない

第一に、工夫によって勝つのは、「搦手」によって勝つかのようで、卑怯であるとする潜在意識があるのではないかと思われる。

つまり、王道的な強さ=正当な強さであり、工夫による強さは邪道だ、とみなされているように思える。

実際、『鬼滅の刃』の映画において、炭治郎が猗窩座と戦う際にも、正面からぶつかり合い、その上で敵を実力で上回ることが美しく描かれていた。炭治郎は、「透き通る世界」によって、猗窩座に察知されなくなったことを利用し、隠密的に殺すこともできただろうが、しなかった。

それは、正面から王道的な実力で勝ってこそ、正々堂々勝ったといえるのだ、という価値観があったからだろう。

②実力ではない

第二に、王道的な強さこそ、真の実力であると考えられがちである。

元サッカー選手ベッケンバウアーの有名なセリフで、「強い者が勝つんじゃない。勝った者が強いんだ」という言葉がある。これは、裏を返せば、一般的に、強い者が勝つと考えられがちであり、しかも、強いとみなされていない者が勝った場合でも、その者が強いと認められない傾向があることを意味しているのではないか。

実際、「実力では勝っていた」とか、「10回やれば8回は勝っていた」とかいう言い方をする。

つまり、人は、王道的な実力を、勝負の結果よりも重視するのである。ということは、王道的な実力がないのに、勝負に勝った場合、その勝ちは認められにくいということである。

③同じ力ではない

第三に、工夫によって勝負する場合、その勝負は、同じ力を比べるものではなくなる。なぜなら、工夫とは、同じ力で勝負したら負けてしまうからこそするものであり、別の力を使って勝負するものだからだ。

たとえば、胡蝶は、自分の得意な毒を活かせるように工夫し、鬼の首を斬れるかという勝負を避けている。

同じ力を比べて、それで相手を上回った場合は、その力において、相手よりも強いといえるが、別の力によって相手に勝った場合、勝負に勝ったということしか言えない。相性の問題かもしれないし、相手の実力を上回ったとは言いづらい。

また、同じ力同士を比べるなら、その勝負は力と力が噛み合って盛り上がるが、工夫によって別の力同士を比べる場合、そもそも噛み合わず、勝負が盛り上がらないという問題もある。

 

人間のアイデンティティとしての工夫

こういった理由から、工夫によって相手に勝つことは、フィクションの世界ではあまり歓迎されないのかもしれない。

だが、それは皮肉なことである。

そもそも人間は、自然界においては貧弱な存在で、力では他の動物に敵わない場合が多い。それを、知恵を使って工夫することで、すべての動物の頂点に立ったのだ。そして、今日まで文明を発展させてきた。

工夫とはいわば、人間のアイデンティティなのである。

それにもかかわらず、人は王道的な実力(=物理的な力)に憧れ、もてはやす。だがそれは、工夫するしかなかった人間が本能的にしてしまう、ないものねだりなのかもしれない。